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2023-12-20 00:00:00

京都 / 西本願寺

京都 / 西本願寺

 親鸞聖人生誕850年記念 「安楽の祈り」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1218135

       

                             - 浄土真宗本願寺派総本山 西本願寺 -
                                                         

 冬至も間近にせまる師走の短日。それまでの暖冬の気温が一気に下がり、冬らしく白息混じる古都・京都において、「親鸞聖人生誕 850年記念芸術祭 安楽の祈り」を開催させて頂きました。

 西本願寺は、京都東山に創建された親鸞聖人の廟堂を起源とする浄土真宗本願寺派の総本山です。浄土真宗は開祖・親鸞聖人によって開かれ、中興の祖・第8代蓮如上人の時代に、急速に近江をはじめとした近畿地方や東海、北陸にひろまり、隆盛をきわめました。各地に寺基を移転した後 、1591( 天正15年 )に豊臣秀吉より京都七条堀川の地を寄進され、地震や火災を経て、ほぼ今日に近い姿となっています。阿弥陀堂や御影堂、飛雲閣など、数々の国宝や文化財を擁し、能舞台として日本最古の北能舞台、唐門、書院、黒書院等の建造物は、華麗な桃山文化の粋を今に伝えています。特別名勝の大書院庭 園( 虎渓之庭)は枯山水様式を今に伝 え、1994 年には、「古都京都の文化財」としてユネスコの世界文化遺産にも登録され、修学旅行やツアーの定番コースとして多くの方が訪れる名刹です。
 浄土真宗は織田信長の石山本願寺攻めを機に、1602 年に東西に分裂しましたが、江戸時代後半になると両派の対立は和らぎ、現在はすぐ隣に建つ東本願寺とも交流があります。浄土真宗の真宗十派で構成される「真宗教団連合」が結成されており、真宗各派の協調・連携を図るという目的で、両派間でも盛んに交流が行われているようです。

 浄土真宗の教えの特徴は、厳しい修行を成した者だけが成仏できる「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ、感謝の心をこめて「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、誰もが救われ、極楽往生できるという「他力念仏」という考え方があることです。阿弥陀如来は「苦しみに満ちたこの世では生きるだけでも精一杯、皆のことは私が必ず救ってあげる」という願いを「南無阿弥陀仏」の念仏にこめて示してくださっています。西本願寺に訪れると、私たちの世界を超えた大きな働きが私たちを見守ってくれ、限りある人生を見つめ直すきっかけや自分自身のことを改めて発見するご縁を頂けるような気がしました。

 

                         - 名刹に集う和の輝き -

 

本展の会場となったのは西本願寺敷地内の聞法会館。仏前結婚式や法話会、講演会なども行われる宿坊です。温暖化の影響で年々ずれ込む紅葉シーズンは、今年の猛暑の影響からか、12月でも銀杏黄葉の葉を残し、冬 季の澄んだ空気に包まれた寺院には、中高生の修学旅行や親鸞聖人生誕 850 年の記念年にお参りしようという参拝客などがたくさん訪れていました。京都の街自体も、ようやくコロナ禍前のにぎわいを取り戻し、世界各地からの外国人観光客や、全国からの旅行者が観光スポットを訪れていました。

 展覧会場内には、京都の伝統工芸品である西陣織をアレンジし 、硝子の飾り皿という新たな姿に昇華したものに文芸作品をしたためた器や 、京友禅生地や書道文字で彩った掛軸作品、作品の世界観に合わせたデザイン画で仕立てた詩のアートパネル等 、親鸞聖人の御仏壇の前で日本の芸術家たちの粋を集めた作品達が並びました。
 開催期間中は、小さな子供さんから文芸を嗜んでいるというご年配の方や、ご家族連れ、仏教関係者等、非常に多くの方にご来場頂くことができました。作品を鑑賞頂いた方からは、「どれも読みやすい内容で共感できるものが多かった」、「久しぶりの京都旅行の良い思い出になりました」、「仏の教えにも通ずるような作品も拝見できた」等、嬉しいお声を多数頂き、本展覧会の開催意義が十分に果たせた手応えを感じることができました。

 浄土真宗のみ教えの中には、「生かされていることに感謝して むさぼり 怒りに流されず喜びも悲しみも分かち合い日々に精一杯つとめる」という言葉があります。様々な世界事情にみまわれた 2023年、新たな年となっても思いもよらない難
事が私たちを襲います。そんな状況の中でも、800 年前の親鸞聖人の言葉に学び、今生きている奇跡に感謝し、助け合い の心を持って乗り越えていかなければならないと感じました。
言葉を通じての繋がりが微力ながらその一助になれば幸いです。最後になりましたが、今回の「親鸞聖人生誕 850年記念 安楽の祈り」の成功はご参加頂いた皆様のお力添えあってのものということはいうまでもございません。心から感謝致しますと共に皆様のご健康と益々のご発展を心よりお祈りしております。誠にありがとうございました。

2023-07-06 00:00:00

HAWAII / 日本文化センター

ハワイ / 日本文化センター

日本ハワイ移民155周年記念「虹の芸術祭」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1194864

-  常夏の楽園 ブルーハワイ -

 

 

 つきぬける青空とエメラルドグリーンの海の境目がまじりあい碧く伸びる水平線、小麦色の砂浜が広がる世界屈指の観光リゾート地、ハワイ・オアフ島。最も近い大陸から3000km以上離れた絶海の孤島でありながら、海も山も都会も田舎もすべてがそろった唯一無二のリゾートアイランドです。日系移民がもたらした文化や食が根づき、「ひな祭り」「盆踊り」「灯籠流し」などの日本の行事も行われるなど、一度訪れれば誰もが魅了される島である。

移民の歴史はハワイの砂糖産業の発展と深い関わりがあります。ハワイの砂糖産業は1830年代に西洋人の手によって開始され、米国への輸出を増加させていきました。しかし、西欧人の来島とともにもたらされた病気等が原因でネイティブハワイアンの人口は減少。砂糖農園は多くの労働人口を必要とするため、ハワイ王国は1852年に外国からの移民の受入れを決定します。日本の記録によると1860年、勝海舟、ジョン万次郎等を乗せた咸臨丸が補給のためにホノルルに寄港した際、カメハメハ4世に謁見し、日本からの移民を要請されました。そして明治元年(1868)、幕末の混乱期に、後に「元年者」と呼ばれる150名の移民が横浜からハワイに渡りました。その後、多くの日本人が農地で数年働いて財を成し、帰国しようと考え、太平洋を渡りましたが、現実の労働は休憩時間もほとんど無く、鞭で打たれることもあるなど非常に厳しく、農地に居つかざるをえない状況になりました。

移民一世は農園へ出稼ぎに来ていたので、社会的地位も低かったと言われています。親の苦労を見て育った二世たちは努力し、公立学校では英語教育を受け、日本語学校では日本と同じ修身の授業が行われるなど、勉強を重ねましたが、そんな中、太平洋戦争が起こってしまいます。日系二世達は米兵として徴兵されるなど過酷な運命を辿りましたが、戦争終了後にはアメリカにおける日系人の地位向上のため、復員兵援護法を利用し、大学に進学する者も増え、教養をつけて政治家や教師、弁護士や医師などの職に就く者が多くいました。現在、ハワイの人気店でもあるマツモトシェイブアイスやABCストア等も日系移民が始めたお店です。他にも、戦後初の日系議員となったダニエル・K・イノウエ、ハワイ州で初の日系知事となったジョージ・アリヨシ、戦後日本プロ野球界初の外国籍選手として読売巨人や中日ドラゴンズで活躍したウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)等、多くの二世が活躍し、日系人の社会的地位向上に貢献しました。

このように、戦後から現在に至るまでのハワイの発展ぶりは日系人の活躍なくしては成立しませんでした。アメリカであって日本でもある。先人達のたゆまぬ努力によりハワイ社会と日本の絆が形成されていったのです。

 

 

 

 

- 継がれゆく伝統 つながるアロハスピリット-

 

 

  本展の会場となったJapanese Cultural Center of Hawaii(日本文化センター)はワイキキから程近く、ハワイ大学の南側、日系人も多く住むモイリイリ地区にあります。日本から移民した父母や祖父母から受け継いだ文化と歴史を後世に残そうと1987年に設立されました。155年前に初めて日本からこの島に来た先駆者達が祖国を離れ、どのような夢を描き、海を渡ったのか。そして重労働や差別、戦争に耐え、果敢に戦った歴史が当時の街並みを再現した資料と影像で展示されています。展示ギャラリーの入り口には日系移民達が大切にしていた「恩」「我慢」「感謝」「頑張れ」「誇り」等の言葉が石柱に刻まれおり、当時の生活や精神を感じさせます。

本展覧会場には色とりどりの掛軸や屏風、美術、書道、工芸作品等を並べ、ハワイでは中々見ることのできない日本のアーティストの作品を鑑賞して頂きました。期間中は武道場で剣道の稽古が行われたり、日本の衣服、雑貨のマーケットの開催など様々な行事が行われていました。世界的観光地という土地柄もあり、日系の方を中心に白人、黒人、アジア系等、様々な国、人種の人々に日本の誇る芸術を鑑賞頂きました。現地の日本県人会の方や、宣伝のポスターやインターネットのSNSで開催を知って見に来てくれた人、欧米からの旅行客で、YouTubeで日本語を学び、熱心に作品を眺めていた10代の若者など、日本文化が言葉の壁を越えて世界にも通じる芸術世界を確立していることを確信できました。

ハワイはレインボー・ステイト(虹の州)と呼ばれるほどよく虹が見られます。免許証や車のナンバープレートにも虹のモチーフがデザインされており、神話でも天界と下界をつなぐ懸け橋と考えられています。会期中、会場の大きな窓ガラス越しの山に降ったスコールの後に虹が現れ、偶然にも展示作品の背景に虹がかかるといった幻想的な瞬間を目にすることができたのは、まさに天界の先人達と今回の作品たちが懸け橋でつながった奇跡的な一瞬であったように感じました。

ハワイアンのことわざに「NO RAIN, NO RAINBOW(雨が降らないところに虹は出ない)」という言葉があります。昨今、戦争やパンデミックの影響による資源の高騰、物価上昇、環境破壊による異常気象など、新たな困難が我々を襲っています。しかし、辛い時代を自らの力で切り開いていった移民者の精神に学び、何事も苦労の後にはきっと虹のように明るい未来が待っていると信じて、今回の日系移民文化交流を無事終える事ができました。

 最後に、今回の「日本ハワイ移民155周年記念 虹の芸術祭」が開催できましたことは、ご協力頂いた関係者、作者の方々のお力によるものということは言うまでもありません。心から感謝致しますとともに、皆様の益々の発展とご健康をお祈り申し上げます。

2022-12-16 00:00:00

福岡 / 太宰府館

福岡 / 太宰府館

太宰府文芸祭「詩楽の歌」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1157760

- 古代国交の要衝地 -

 

彩り豊かに紅葉した木々も段々と冬木となり、陽の短さをいっそうに感じる歳末の十二月。福岡県太宰府にて「太宰府文芸祭 詩楽ノ歌」を開催させて頂きました。太宰府市は、中世の昔に日本の西の要地であった大宰府政庁跡やそれを囲む城、天神様を祀る太宰府天満宮があり、今も人々に親しまれている日本屈指の観光地です。

7世紀後半に九州筑前国(現在の福岡県の大部分)に置かれた地方行政機関が大宰府であり、軍事・外交や防衛、九州地方の内政も行い、その権限の大きさと立地から「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれていました。大宰府政庁跡には主な建物として、政庁、学校、税司、薬司、警固所、兵馬所などがあったとされ、国の特別史跡に指定されています。また、現在の元号である「令和」の起源となった「梅花の宴」が行われた大伴家持邸跡があったといわれる坂本八幡宮や、縁結び厄除け神社としても有名な竈門神社など、訪れる価値のあるスポットが数多くあります。

その中においても、太宰府天満宮は年間約1000万人の観光客が訪れ、天神様をお祀りする全国12,000社の天満宮の総本宮としても知られています。九州最大級の規模を誇るお社であり、菅原道真公の御心霊を祀り、学問・受験の神様として全国各地から合格祈願を祈る受験生や多くの参拝客が訪れます。鳥居をくぐり、本殿までは池にかかる3つの朱塗りの橋を渡りますが、上から見ると漢字の「心」の形になっていることから「心字池」と名付けられています。この3つの橋は過去・現在・未来の三世一念を表し、これを渡ることによって三世の邪念を祓い、参拝者の身を清めるとも言われています。古代建築の妙を感じながら悠久の流れを感じることのできるお宮です。

桃山時代の豪壮華麗な様式を伝える現在の御本殿は1591年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されていますが、実は天満宮は20235月から124年ぶりの大改修が行われることがアナウンスされており、展覧会開催時期は今の御本殿に参る最後の機会とも重なりました。

類いまれなる才能を世のために発揮し、左遷されても最後まで誠心を尽くし、生涯を讃えられた道真公への崇敬は学者や政治家だけにとどまらず、禅宗の僧、寺小屋の子供たちなど幅広い層にまでおよび、文道の祖また至誠の神としての信仰が広がりました。ここを訪れると、不遇な時でも誠意をもって取り組む心は現代の我々にも通ずる気持ちであることを改めて感じます。

 

- コトダマ 雪華に舞う -

 

 本展の会場は、天満宮の参道沿いに位置し、多くの土産物屋や、道真公を埋葬する際、彼が愛した梅と餅を一緒にお供えしたという故事に由来する名物菓子、梅ヶ枝餅などを販売する飲食店が軒を連ね、師走の寒さの中でも活気に溢れていました。開催期間中は、修学旅行で訪れる中・高生の団体や、地元の家族連れ、地方からの参拝客など、秋から始まった全国旅行支援制度の影響もあり、初日から沢山の人に作品を鑑賞してもらうことができました。三日目には大粒の雪が降り、御本殿や、庭園も冬化粧がなされ、いつもと違った天満宮の表情に、集まった人々もカメラを片手に思い出を写真に残していました。

 今回は、全国各地の詩歌作家の作品を九州ゆかりの有田焼のお皿に焼き付けたり、金箔の箔押し紙に写し、博多織の額で装飾し、従来とはまた違った形で作品を鑑賞して頂きました。

展示期間中には、「今まで触れたことのない日本の芸術に出会って感無量でした」、「ちょうどテレビなどでも詩歌が取り上げられているので自分もやってみたいと興味を持った」、「子供たちや友達にも見せてあげたいので我が町でも開催して欲しい」など、場所柄か、老若男女色々な世代の方からのご意見、ご感想を頂きました。今回の展覧会タイトル通り、「詩歌を楽しむ」ということを存分に味わって頂けたように感じます。

 コロナ禍も三年が経ち、これまでの外出自粛の緩和や旅行など、巣ごもりの生活スタイルが徐々に変化してきている中、日本芸術のまだ見ぬ作品を無事にご鑑賞頂けたことは大きな喜びであり、これからの世代にも繋がっていく可能性を大いに感じられた催しとなりました。太宰府で生まれた令和という言葉には、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められています。人の心を動かすのは人の言葉、想いの込められたコトダマにこそ、永代に続く人の魂が語り継がれていくのだと確信しました。

 最後に、今回の「太宰府文芸祭 詩楽ノ歌」が開催できましたことは、ご協力頂いた各関係者様、素晴らしい作品を作り上げた作者の方々のお力によるものということは言うまでもありません。心から深く感謝申し上げるとともに、皆様のこれからの益々のご発展、ご健康をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

2022-06-24 00:00:00

沖縄 / 沖縄県立博物館・美術館

沖縄 / 沖縄県立博物館・美術館

沖縄本土復帰50周年「美ら島芸術祈願祭」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1131063

- 南海の楽園 美ら島 -

 

 沖縄県は日本列島の南西端に位置しており、南北約400km、東西約1000kmと広大な海域に49の有人島と多数の無人島が点在し、構成されています。亜熱帯気候特有の暖かい気候で年間平均気温は23℃前後、6月下旬の梅雨明けから本格的な観光シーズンが始まり、旅行客も増えてにぎわいを見せます。

飲食店や土産物屋が並ぶ国際通り、美しいビーチ、世界最大級の水槽を持つ美ら海水族館、ひめゆり学徒の御霊を慰霊するひめゆりの塔など、沖縄には観光や大自然の絶景、歴史を物語る重要スポットがいくつもあります。2019年の火災で主要な建造物が焼失した首里城公園も、20206月からは段階的に遺構・残存物の公開を開始し、復興を目指しています。今年の沖縄地方は例年より1週間程早く梅雨が明け、一気に日差しも強まり、夏本番の絶好の青天続きの中、展覧会を迎えることができました。

 

 

- 琉球王朝から日本の一員へ 戦後統治下 -

 

 沖縄は日本、中国、東南アジアにも近いため「東アジアのヘソ」と呼ばれ、古来よりそれらの国々との交易を行いながら国際色豊かな文化を育み、栄えていきました。先住民は約18000年前に大陸から渡ってきたとされ、本州の鎌倉時代にあたる頃には、実力者が各地にグスク(城塞)を築く三山時代に入ります。そしてこれを統一した尚巴志(しょうはし)1429年に王朝をおこし、初代琉球王国を打ち立てます。アジア各地との貿易も盛んになり、この頃に泡盛、紅型、三線といった琉球文化の基礎が流入し、繁栄しました。その後、江戸幕府に組み込まれた琉球は独立国の体裁を保っていましたが、明治以降、1879年の廃藩置県により沖縄県となり、450年続いた王朝は終焉を迎えました。

 昭和に入り太平洋戦争に突入すると、沖縄の島々には飛行場が建設され、アジアの前線基地の色合いが濃くなります。日本は敗戦を重ね形勢不利となり、度重なる空襲により那覇市は炎上、1945年に連合軍が本島へ上陸して繰り広げられた地上戦は多くの犠牲者を出しました。終戦後、アメリカ軍統治下になりますが、現地での祖国復帰運動や、世界で批判されたベトナム戦争での米軍の出撃拠点に使われたこともあり、反米感情が高まり、27年後の1972年に日本へ復帰。米軍基地を維持したままでの不完全な返還は今も続く基地問題としてそのしこりを残すこととなりました。

 統治時代は本土渡航にパスポートが必要であったり、米軍物資の影響でコンビーフやステーキなどの食生活の変化、ジャズやロックの流入など、その後の沖縄の食・文化にも大きな影響を与えました。県の工芸品、琉球ガラスも元は、戦後の資源難のため、コーラやビールの瓶の再利用から始まったものです。

沖縄は長い歴史の中で王朝、日本への帰属、アメリカ統治、そして本土復帰と様々な経験をし、47都道府県の中でも独自の道を歩んできました。米軍による統治は返還から50年経った現在も種々の影響を残しています。

 

 

- 未来へつながるアートの懸け橋 -

 

 本展の会場となった沖縄県立博物館・美術館は、再開発の進む新都心・おもろまちに位置します。ここは那覇市北部にあたり、米軍基地返還に伴い整備された一大再開発地です。約214万㎡の面積のうち、元米軍基地は192万㎡を占め、大型ショッピングセンターや映画館、オフィスビルが建設され、県立博物館・美術館では郷土作家の絵画や彫刻、写真などを鑑賞できます。外観はグスクをモチーフにした斬新な建築デザインで目を引き、古代から琉球王朝時代、戦中戦後の沖縄の歴史や文化の興味深い展示や、企画展も充実し、沖縄の観光スポットとしても注目されています。

本展覧会は夏の観光シーズンとコロナ第7波到来前のタイミングであったということもあり、地元の方々や県外からの来沖客など、沢山の方にご来場頂くことができました。作者の方の想いを多様な表現で表した作品をご覧頂き、「深い思いに胸を打たれた」、「この展覧会を通じて沖縄という場所の立場、歴史を若い方にも考えてもらうきっかけになってくれれば嬉しい」といった声を頂きました。

 戦後77年、そして沖縄返還からようやく半世紀。日本にとって節目となる年に起こったヨーロッパでの戦争。それは様々な形で波及し、世界は大戦後に築かれてきた秩序から大きく変化を迎えようとしています。我が国も東アジアの安定に関して地政学的にも重要な場所に存在し、海の向こうの出来事と無関係ではありません。本展の開催意義は、これまでの歴史や世界で起きていることを認識し、平和のため、子供たちの笑顔を守るために個々がどうしていけばいいかを考える契機になればと願い、微力ながら沖縄返還50周年という節目での催しをさせて頂きました。この小さな波紋が大きく広がり、やがて凪のように穏やかに人々の心を平和への想いに導いていければと願います。

 最後に、今回の「沖縄本土復帰50周年 美ら島芸術祈願祭」を無事に開催できましたのはご協力頂いた関係者の皆様、素晴らしい作品を創作された作者の方々のお力あってのことはいうまでもありません。心より深く御礼申し上げるとともに、皆様のこれからの益々のご発展、ご健康をお祈りしております。

2021-12-17 00:00:00

京都 / 知恩院

京都 / 知恩院

京都芸術祈願祭 「安穏の祈り」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1114947 

 - 南無阿弥陀仏 人々を照らす希望の教え -

 

 風冴ゆる玄冬の京の都。千古の昔からの寺社仏閣が立ち並び、歳末のにぎわいにつつまれた古都の代表的観光地である東山の町並みは、冬茜の陽に照らされ、光る粉雪のごとくきらきらとした輝きを帯びていた。その数ある寺院の中でも京都を代表する名刹にして800年以上の旧史をもつ知恩院の敷地内には美しい冬紅葉が首をもたげ、年の暮れの祈祷に訪れる参拝者達を歓迎していました。

 

 寺院の入り口には、高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚を誇り、その構造・規模において日本最大級の木造門、かつ国宝でもある「三門」が構えています。その楼上内部は通常非公開になっていますが、中は仏堂となっており、中央に宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像(いずれも重要文化財)が安置されています。門をくぐると、急な男坂、緩やかな女坂があり、その先には、三門と同じく国宝に指定され、法然上人像が設置されている御影堂、そしてその西に位置する阿弥陀堂には浄土宗の本尊・阿弥陀如来が、それぞれ仁愛のお顔で人々を見守っておられます。

 

 知恩院は浄土宗の開祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院であり、江戸時代には徳川幕府の庇護を受け、壮大な伽藍(がらん)ができました。建築物内には多数の不思議な言い伝えが残っており、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼に知恩院を守ることを約束して置いたという「忘れ傘」。狩野信政筆の絵で親猫が子猫を愛しむ姿が見事に表現され、どちらから見ても見るものを正面からにらんでいるように見える「三方正面真向の猫」など、長尺の歴史の中に様々な伝説が伝わります。

 

 法然上人は平安時代末期に豪族の子として生まれましたが亡き父の遺言により出家します。法然の生きた時代は保元の乱(1156)、平治の乱(1159)といくさが続き、地震や飢饉に襲われ、また、釈迦の入滅後、仏の教えが衰え、乱世になるという「末法思想」も人々の間で広がっていました。法然は厳しい求道の日々を重ね、43歳で唐の善導大師の観経の疏の書を読み、苦悩から解き放たれます。阿弥陀仏を称えれば誰もが必ず救われるという教えは、「末法の世」の中で万人の救いとして瞬く間に民衆に受け入れられていきました。当時の日本で、限られた一部の人のためであった仏教が、民衆へと広まるきっかけとなったのです。やがて貴族や武士にも広まり、上皇、天皇までもが法然から授戒を受けます。浄土真宗の開祖となる親鸞も、法然の薫陶を受けています。鎌倉時代に隆盛した他の仏教も、出家せずとも救われるという教えは共通していて、法然が鎌倉仏教の先駆けとなったと言えます。法事などの場で、唱えることも多い南無阿弥陀仏。そこにはさまざまな教えが込められています。法然が明快で誰にでも実践できる「専修念仏」の教えを広めたことが、今日の日常にある仏教に繋がっています。

 

 

- 京に彩られた詩歌のコトダマ -

 

 会場となった知恩院和順会館は知恩院「三門」前の緑豊かな場所にあり、晨朝法要への参加、写経体験、宿泊等ができる施設です。中庭には、父の遺言を胸に、希望を持って比叡山へと向かう若き日の法然上人(幼名:勢至丸)の像があり、その傍らには幼い勢至丸に大きな影響を与えた、父・時国公、母・秦氏君、叔父・観覚得業、の御三方を表す、景石3石(三尊石)があります。また、ギャラリーでは総本山知恩院や浄土宗・法然上人に関する展示を行っており、併設されるライブラリースペースでは知恩院や法然上人に関する図書が拝読できるようになっております。

 

 本展の会期中は、盆地ゆえの底冷えの気候も和らぎ、穏やかな気候に恵まれ、たくさんの方に作品を鑑賞して頂くことができました。立地的、歴史的に観光客や参拝客、特に修学旅行生の学生などが多く、本展にも全国からの中、高校生が訪れ、学校の授業で習う詩歌とはひと味違った作品に大きな関心を示し、「作者の方々はどのような想いで作品を作ったのか?」、「現代の言葉で読みやすく作られているので、教科書に載っている作品よりも身近に感じ取れました。」等、様々な感想や質問を頂く場面も多々見受けられました。現在、依然として世界はパンデミックの中にあり、日本においても希望の見えない明日に悲観し、落胆してしまう人たちも増えています。しかし、本展に訪れて頂いた方々の笑顔を見ると、そんな状況でも心の通った言葉に出会うことで、少しでも暗闇に差す一筋の光となれたのではと感じることができました。「冬来たりなば春遠からじ」。コロナ禍の今こそ心を一つにし、未来を信じ、勇気を持って乗り越える強さを持ちたいと感じる催しとなりました。

 

 最後に、今回の「京都芸術祈願祭 安穏の祈り」が無事に開催、成功できましたのは作者の方々の並々ならぬお力であることはいうまでもありません。心より、感謝、御礼申し上げますとともに皆様のご健康、ご発展をお祈り申し上げます。

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