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2023-07-06 00:00:00

HAWAII / 日本文化センター

ハワイ / 日本文化センター

日本ハワイ移民155周年記念「虹の芸術祭」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1194864

-  常夏の楽園 ブルーハワイ -

 

 

 つきぬける青空とエメラルドグリーンの海の境目がまじりあい碧く伸びる水平線、小麦色の砂浜が広がる世界屈指の観光リゾート地、ハワイ・オアフ島。最も近い大陸から3000km以上離れた絶海の孤島でありながら、海も山も都会も田舎もすべてがそろった唯一無二のリゾートアイランドです。日系移民がもたらした文化や食が根づき、「ひな祭り」「盆踊り」「灯籠流し」などの日本の行事も行われるなど、一度訪れれば誰もが魅了される島である。

移民の歴史はハワイの砂糖産業の発展と深い関わりがあります。ハワイの砂糖産業は1830年代に西洋人の手によって開始され、米国への輸出を増加させていきました。しかし、西欧人の来島とともにもたらされた病気等が原因でネイティブハワイアンの人口は減少。砂糖農園は多くの労働人口を必要とするため、ハワイ王国は1852年に外国からの移民の受入れを決定します。日本の記録によると1860年、勝海舟、ジョン万次郎等を乗せた咸臨丸が補給のためにホノルルに寄港した際、カメハメハ4世に謁見し、日本からの移民を要請されました。そして明治元年(1868)、幕末の混乱期に、後に「元年者」と呼ばれる150名の移民が横浜からハワイに渡りました。その後、多くの日本人が農地で数年働いて財を成し、帰国しようと考え、太平洋を渡りましたが、現実の労働は休憩時間もほとんど無く、鞭で打たれることもあるなど非常に厳しく、農地に居つかざるをえない状況になりました。

移民一世は農園へ出稼ぎに来ていたので、社会的地位も低かったと言われています。親の苦労を見て育った二世たちは努力し、公立学校では英語教育を受け、日本語学校では日本と同じ修身の授業が行われるなど、勉強を重ねましたが、そんな中、太平洋戦争が起こってしまいます。日系二世達は米兵として徴兵されるなど過酷な運命を辿りましたが、戦争終了後にはアメリカにおける日系人の地位向上のため、復員兵援護法を利用し、大学に進学する者も増え、教養をつけて政治家や教師、弁護士や医師などの職に就く者が多くいました。現在、ハワイの人気店でもあるマツモトシェイブアイスやABCストア等も日系移民が始めたお店です。他にも、戦後初の日系議員となったダニエル・K・イノウエ、ハワイ州で初の日系知事となったジョージ・アリヨシ、戦後日本プロ野球界初の外国籍選手として読売巨人や中日ドラゴンズで活躍したウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)等、多くの二世が活躍し、日系人の社会的地位向上に貢献しました。

このように、戦後から現在に至るまでのハワイの発展ぶりは日系人の活躍なくしては成立しませんでした。アメリカであって日本でもある。先人達のたゆまぬ努力によりハワイ社会と日本の絆が形成されていったのです。

 

 

 

 

- 継がれゆく伝統 つながるアロハスピリット-

 

 

  本展の会場となったJapanese Cultural Center of Hawaii(日本文化センター)はワイキキから程近く、ハワイ大学の南側、日系人も多く住むモイリイリ地区にあります。日本から移民した父母や祖父母から受け継いだ文化と歴史を後世に残そうと1987年に設立されました。155年前に初めて日本からこの島に来た先駆者達が祖国を離れ、どのような夢を描き、海を渡ったのか。そして重労働や差別、戦争に耐え、果敢に戦った歴史が当時の街並みを再現した資料と影像で展示されています。展示ギャラリーの入り口には日系移民達が大切にしていた「恩」「我慢」「感謝」「頑張れ」「誇り」等の言葉が石柱に刻まれおり、当時の生活や精神を感じさせます。

本展覧会場には色とりどりの掛軸や屏風、美術、書道、工芸作品等を並べ、ハワイでは中々見ることのできない日本のアーティストの作品を鑑賞して頂きました。期間中は武道場で剣道の稽古が行われたり、日本の衣服、雑貨のマーケットの開催など様々な行事が行われていました。世界的観光地という土地柄もあり、日系の方を中心に白人、黒人、アジア系等、様々な国、人種の人々に日本の誇る芸術を鑑賞頂きました。現地の日本県人会の方や、宣伝のポスターやインターネットのSNSで開催を知って見に来てくれた人、欧米からの旅行客で、YouTubeで日本語を学び、熱心に作品を眺めていた10代の若者など、日本文化が言葉の壁を越えて世界にも通じる芸術世界を確立していることを確信できました。

ハワイはレインボー・ステイト(虹の州)と呼ばれるほどよく虹が見られます。免許証や車のナンバープレートにも虹のモチーフがデザインされており、神話でも天界と下界をつなぐ懸け橋と考えられています。会期中、会場の大きな窓ガラス越しの山に降ったスコールの後に虹が現れ、偶然にも展示作品の背景に虹がかかるといった幻想的な瞬間を目にすることができたのは、まさに天界の先人達と今回の作品たちが懸け橋でつながった奇跡的な一瞬であったように感じました。

ハワイアンのことわざに「NO RAIN, NO RAINBOW(雨が降らないところに虹は出ない)」という言葉があります。昨今、戦争やパンデミックの影響による資源の高騰、物価上昇、環境破壊による異常気象など、新たな困難が我々を襲っています。しかし、辛い時代を自らの力で切り開いていった移民者の精神に学び、何事も苦労の後にはきっと虹のように明るい未来が待っていると信じて、今回の日系移民文化交流を無事終える事ができました。

 最後に、今回の「日本ハワイ移民155周年記念 虹の芸術祭」が開催できましたことは、ご協力頂いた関係者、作者の方々のお力によるものということは言うまでもありません。心から感謝致しますとともに、皆様の益々の発展とご健康をお祈り申し上げます。

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