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2026-04-02 00:00:00

沖縄 / 沖縄県立博物館・美術館

沖縄 / 沖縄県立博物館・美術館

終戦80周年 美ら島芸術祈願展 「平和のうた」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1301731

 

未来へ継ぐ 沖縄戦記 -

 

 見わたすかぎりオーシャンブルーに染まった海と真夏の白雲立ち昇る青天の空。南海の楽園・沖縄は例年よりも格段に早く梅雨があけ、夏の到来を待ちに待った観光客らでにぎわう中、「終戦80周年 美ら島芸術祈願展 平和のうた」を開催させて頂きました。

 2025年は日本にとって、また沖縄県民にとっても特別な年になります。太平洋戦争終結から80年、日本で唯一、住民を巻き込む激戦の舞台となった沖縄。そこはまさに血の戦場であり、今日の我々が見る映画や本といった造作物と違い、実際に多くの命が儚く散った場所でした。リゾート地としての現在の華やかな沖縄からは想像できない現実がそこにはあったのです。

 沖縄戦が行われたのは、その地理的要因が大きく関わっています。南方から進軍してきた米軍の目的は、本土攻撃のための基地や兵站を確保すること。一方、日本側の意図は、敗戦濃厚の中にありながら、あくまで本土決戦のために米軍を引き止めて時間を稼ぐことでした。このように日米双方の戦略的思惑に巻き込まれる形で地上戦に至ることになってしまったのです。

 この戦闘は1945年3月26日の慶良間諸島上陸より本格化しました。米軍は、1500隻近い艦船と約54万人の兵員というその圧倒的な物量と兵力で攻撃を行いました。空からの空襲、海からの艦砲射撃、陸の迫撃砲などの無差別な攻撃により、日本軍司令部が置かれた首里や撤退した南部をはじめ、島内の様々な場所が焦土となりました。日本側の被害者数は約19万人。

 1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し日本は独立しましたが、沖縄だけは切り離され、72年の本土復帰まで米軍統治下におかれました。かつて日本が統治していたサイパンやテニアン、満州などでも地上戦はありましたが、ここまでの体験をしたのは沖縄だけです。今も多くの米軍基地が存在し、地中には未発見の遺骨と、幾つもの不発弾が埋まっています。人々を魅了する美しい島、沖縄にそうした悲しい歴史があることを我々は忘れてはいけません。

 

沖縄の自然、歴史、文化を映す複合文化施設 -

 

 本展の会場となった沖縄県立博物館・美術館は、観光地として有名な国際通りからも近く、博物館と美術館が一つになった那覇市中心部にある県内最大の文化施設です。

 琉球王朝時代の城(グスク)をイメージした雄大な施設デザインはグッドデザイン賞を受賞し、博物館では、沖縄の自然や歴史、文化を紐解き、琉球王国の誕生から滅亡、そして戦後の沖縄から未来までを学ぶことができ、美術館では沖縄の風土が育んだ絵画や彫刻、映像を含む数々の美術作品を展示しています。

 本展では、琉球時代からの染織である紅型染めや、着物生地を使用した掛軸に文芸作品を写し、アートパネル、絵画や書道などの作品を展示しました。時折、南国特有のスコールが降りましたが、梅雨明けの本格的なサマーシーズンを待ちわびた観光客、地元の方々、インバウンドによる海外からの訪日客など、様々な方のご来場を頂きました。

 本展を目的にご来場された方や、入口の看板から興味をもって見て頂けた方、お子様からご年配まで多くのご来場者からは、「終戦80年が100年、200年と続いていくよう体験者がいなくなっても記憶を受け継いでいかなくてはならない」、「人生の節々の思いが作品に表れていてとても見応えがあった」等、多くの賛辞と激励のお声を頂きました。

 太平洋戦争最後の戦いが行われた沖縄戦は多くの爪痕を残しました。今も後遺症で苦しむ人や、遺族の元に帰れない遺骨、駐留米軍など、未解決の問題が数多くあります。国際社会は複雑に、密接に結びついていて、台湾有事が起きた際の日本に求められる対応など、世界状況は刻々と変化していきます。しかし、人の命を奪う戦争だけは二度と繰り返してはいけないことはまぎれもない事実です。生かされている我々に何ができるか、真の「戦後」とはいったい何を指すのか。今を生きる人々が向き合い、この機会に改めて命の尊さについて考えることが、記憶を未来につないでいく大切な一歩であると弊社は考えます。

 最後に、今回の「終戦80周年 美ら島芸術祈願展 平和のうた」が無事に開催出来ましたことは、ご参加頂いた方々のご助力あってのものということはいうまでもございません。心より御礼申し上げますとともに皆様方のこれからのご健康、ご発展をお祈りしております。誠にありがとうございました。

 

2026-04-01 00:00:00

広島 / 広島平和記念公園

広島 / 平和記念公園

終戦80周年 広島芸術文化展 「祈りの和」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1301722

 

NO MORE HIROSHIMA 世界初の被爆地の80年 -

 

 新年を迎え、寒波の影響で例年にも増して寒さ厳しい初春の月中、めでたく成人の日を迎えた若者たちで街が活気づく広島市・平和記念公園内国際会議場において、「終戦80周年 広島芸術文化展 祈りの和」を開催させて頂きました。

 太平洋戦争末期、敗戦濃厚の日本はそれでも徹底抗戦のかまえをみせ、多くの若年兵士と一般市民の命が散っていきました。そして世界で初めての原爆が広島に投下され、一瞬にして何万人もの命と街が破壊されました。80年を経た今でも、広島市は人類が忘れてはいけない悲劇と負の記憶を抱えています。

 昨年の2024年は、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の長年の活動実績が国際的にも認められ、ノーベル平和賞を受賞するというニュースがありました。日本被団協は、戦後の病苦と差別に苦しんでいた被爆者達が、1954年のビキニ水爆実験による第五福竜丸の被災をきっかけに高まった原水爆禁止運動を契機とし、「核兵器廃絶」と「原爆被害への国家補償」の2つを根幹として結成されました。国連本部での原爆展や、核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名運動を経ての核兵器禁止条約の制定等の粘り強い活動を続け、今も被爆者たちの平和希求への声を世界に発信し続けています。こういった約70年もの活動がノーベル平和賞という形で世界的にも広く日の目を見たことは誠に喜ばしいことであると同時に、核戦争が始まるのではないかという懸念がされる昨今、この受賞は国際平和的観点から見ても大変大きな意義を持ちます。

 月日が経ち、原爆被害者の平均年齢は85歳となりました。将来的には直接の被爆証言を聞くことができなくなってしまいます。被爆者世代が高齢になる中、現代社会は被爆体験の語り部の世代交代という新たな過渡期に入っているといえます。被爆者達の思い、言葉を正しく受け継ぎ、正確に伝えていくために今一度、体験世代の方々の声を聞き、次世代に記憶と教訓を継承していくことが大切です。

 

- 慰霊の地から羽ばたく折鶴の祈り -

 

 広島平和記念公園は、戦後に制定された「広島平和記念都市建設法」に基づき、爆心地周辺を平和の象徴とするため、原爆死没者の慰霊と世界恒久平和を祈念して開設された都市公園です。建築家の故丹下健三氏を中心としたチームで設計され、記念館、広場、慰霊碑、原爆ドームを1本の直線で結ぶ配置でデザインされ、原爆の子の像、原爆供養塔等の慰霊碑が点在しています。毎年86日には平和式典で黙祷や献花が行われ、平和の尊さを学ぶ場として多くの方が訪れています。今回は平和祈念資料館と併設した国際会議場にて「終戦80周年 広島芸術文化展 祈りの和」を開催させて頂きました。

 伝統工芸の江戸からかみと、被爆地に届けられる折鶴の再生和紙を融合させ、そこに文芸作品を書きつけた額や、作品の世界観をデザインした詩のアートパネル、迫力ある絵画や書道、立体作品等の美術作品を展示しました。会期中は観光客や、地元の方、お子様に至るまで、老若男女様々な方にご鑑賞頂けました。訪れた実際の被爆者や観光客の方からは「私達の体験を伝えていく行事として大変嬉しかった」、「被団協のノーベル平和賞に続きこういった取り組みを広げていって欲しい」等、多くの激励の言葉を頂戴致しました。

終戦80年の節目を迎え、今や戦後生まれの人口が9割以上、年月を重ねる中で戦争体験を直接聞く場は減少しています。しかし、ウクライナ侵攻やパレスチナ問題、台湾危機等、戦後生まれ世代でも戦争に関わる記憶はあります。出来事だけの知識ではなく、なぜ戦争は起き、始まるとなにが起こり、起こさないためにはどうすればよいか、それを考え話し合っていくことが重要です。

今、世界には広島原爆以上に強力な核弾頭が約12000発存在し、約4000発が即座に発射可能に配備されています。人類は自らの手で地球を滅ぼす力を手に入れてしまいました。日本被団協代表は受賞演説で「人類が核兵器で自滅することのないよう核無き世界を実現するため、世界中の皆さんで共に話し合い、核政策を変えさせる力になることを願います」と訴えかけました。尊い命を守るため、核無き世界を目指すために弊社の催しが少しでもその力になれることを信じます。

最後に、本展覧会が開催できましたのは、ご参加頂いた作者の方々のお力添えあってのものということはいうまでもございません。心から感謝致しますとともに皆様方のご発展とご健康をお祈りしております。誠にありがとうございました。

2024-07-01 00:00:00

名古屋 / 熱田神宮

名古屋 / 熱田神宮

熱田芸術祈願祭 「みことの杜」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1243307

       

- 熱田神宮 聖剣護る万古の大社 -
                                                         

 例年よりも遅れて迎えた入梅の水無月。湿った空気をやわらげる神苑の杜の中、「熱田芸術祈願祭 みことの杜」を開催させて頂きました。

 熱田神宮は創建約1900年、天皇家の皇位継承とともに代々受け継がれてきた国宝である三種の神器の一つ、草薙御剣(くさなぎのみつるぎ)を御神体として、天照大神を祀り、伊勢神宮に次ぐ、格式の尊い日本を代表する御宮です。JR名古屋駅から電車で10分程とアクセスもよく、黄金のしゃちほこで有名な名古屋城と合わせて、名古屋に来れば必訪の観光スポットでもあります。

 天照大神は、天皇家の祖神ともいわれ、人々に慈しみの徳を与えられる日本の最高神です。又、相殿神として、草薙御剣と縁深い、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、健稲種命の五柱神が祀られています。正面の鳥居をくぐると、大都会の真ん中とは思えない深淵なる森が広がり、神の聖域に足を踏み入れた実感が湧いてきます。約6万坪の敷地の中には本宮・別宮外43社が祀られ、様々な種の和木が生い茂っています。有名なものでは、花が咲いても実のならない「ならずの梅」、茶人の愛好する「太郎庵椿」、弘法大師お手植えと言われる樹齢1,000年を超える大楠などが緑陰を宿しています。

 本宮にお参りするだけでなく、その裏側を一周する「こころの小径」は、2012年まで一般立ち入りが禁止されていた熱田神宮最奥部の神域です。ここには熱田大神の勇壮な神威を表される「荒魂」が祀られている一之御前神社があり、神宮随一のパワースポットとなっています。

 歴史ある熱田神宮も太平洋戦争時の空襲によって国宝の門など、壮麗を尽くした建築も消失してしまいました。しかし、崇敬者たちの熱意によって復興を遂げ、現在ではかつての姿をしのぐ、神器奉斎のお宮に相応しい社殿となりました。さらに名古屋市は現在、熱田神宮の駅前再開発構想を取りまとめており、JR熱田神宮駅前に2024年秋頃開業予定の新たな商業施設の開発が進んでいます。約7,000㎡に木造平屋造りの施設が3棟建設され、飲食店やお土産屋などが軒を連ね、訪日外国人や熱田神宮への観光客の誘致を活性化させます。新名所の誕生により、より一層人の交わる神ノ宮へと新化していくことでしょう。

 

- 神に捧げ 人を繋げる日本芸術 -

 

 熱田神宮は長い歴史の中で多数の希少な宝物を寄贈されてきました。その総数は約6,000点、そのうち170余点が国及び、愛知県の指定文化財に登録されています。

その寄贈された宝物から各時代の選りすぐった逸品を展示し、和の伝統の美術性を学べる空間となっているのが、本宮近くに位置する文化殿・宝物館です。今回、神宮の歴史を物語る名品に出会える貴重な場、その文化殿にて、「熱田芸術祈願祭 みことの杜」を開催させて頂きました。

通常の展示施設とは異なり、解放感ある天井高と大窓のある会場中央には、地元名古屋市の華道家による、高さ5mの緑樹と生花をあつらえ、屋内に熱田の杜を表現して頂きました。そして、その周りを囲うように日本三大漆器の一つ、紀州の黒江塗りの飾り盆や、着物の帯地を額に表装したものに詩歌を写し、詩作品や絵画、写真、工芸等の美術作品と合わせて展示致しました。

ちょうど梅雨の入りとなった時期でしたが、参拝者が増える大安の日もはさみ、五月雨の潤いを帯びた樹林の中で、心穏やかに鑑賞できる芸術作品たちは、明鏡止水のごとくその輝きを一層増し、来場者に多くの驚嘆と共感をもたらしました。我々青藍社スタッフへも、たくさんの作品に関する質問を頂き、改めて作品の持つ魅力の深さに驚かされました。お話した方々からは、「私もこういう風に心の内を表現できるようになりたい」、「日本の芸術の良さを改めて感じられました」等、多くの嬉しい称賛の声を賜ることができました。

2024年は、年明けから列島を襲った能登地震や、終わらぬ海外の紛争による物価や為替の影響、政治不信等、テレビのワイドショーではいまだに良いニュースが少ないように感じます。「正直の頭に神宿る」、正直に生きている者には必ず神の加護があると言われます。それだけでなく正しく生きれば周りの人も助けてくれる。熱田大神に参り、来場者の笑顔とそれを繋げてくれた作家様に感謝し、弊社としても初心忘れず、日本の芸術文化普及に邁進する思いを再確認することが出来た催しとなりました。

最後に、本展覧会が無事に成功できましたのは、ひとえに素晴らしい作品を生み出した作家様のお力であることは言うまでもありません。皆様方の益々の発展とご健康を祈り、結びのご挨拶とさせて頂きます。誠にありがとうございました。

 

2023-12-20 00:00:00

京都 / 西本願寺

京都 / 西本願寺

 親鸞聖人生誕850年記念 「安楽の祈り」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1218135

       

- 浄土真宗本願寺派総本山 西本願寺 -
                                                         

 冬至も間近にせまる師走の短日。それまでの暖冬の気温が一気に下がり、冬らしく白息混じる古都・京都において、「親鸞聖人生誕 850年記念芸術祭 安楽の祈り」を開催させて頂きました。

 西本願寺は、京都東山に創建された親鸞聖人の廟堂を起源とする浄土真宗本願寺派の総本山です。浄土真宗は開祖・親鸞聖人によって開かれ、中興の祖・第8代蓮如上人の時代に、急速に近江をはじめとした近畿地方や東海、北陸にひろまり、隆盛をきわめました。各地に寺基を移転した後 、1591( 天正15年 )に豊臣秀吉より京都七条堀川の地を寄進され、地震や火災を経て、ほぼ今日に近い姿となっています。阿弥陀堂や御影堂、飛雲閣など、数々の国宝や文化財を擁し、能舞台として日本最古の北能舞台、唐門、書院、黒書院等の建造物は、華麗な桃山文化の粋を今に伝えています。特別名勝の大書院庭 園( 虎渓之庭)は枯山水様式を今に伝 え、1994 年には、「古都京都の文化財」としてユネスコの世界文化遺産にも登録され、修学旅行やツアーの定番コースとして多くの方が訪れる名刹です。
 浄土真宗は織田信長の石山本願寺攻めを機に、1602 年に東西に分裂しましたが、江戸時代後半になると両派の対立は和らぎ、現在はすぐ隣に建つ東本願寺とも交流があります。浄土真宗の真宗十派で構成される「真宗教団連合」が結成されており、真宗各派の協調・連携を図るという目的で、両派間でも盛んに交流が行われているようです。

 浄土真宗の教えの特徴は、厳しい修行を成した者だけが成仏できる「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ、感謝の心をこめて「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、誰もが救われ、極楽往生できるという「他力念仏」という考え方があることです。阿弥陀如来は「苦しみに満ちたこの世では生きるだけでも精一杯、皆のことは私が必ず救ってあげる」という願いを「南無阿弥陀仏」の念仏にこめて示してくださっています。西本願寺に訪れると、私たちの世界を超えた大きな働きが私たちを見守ってくれ、限りある人生を見つめ直すきっかけや自分自身のことを改めて発見するご縁を頂けるような気がしました。

 

- 名刹に集う和の輝き -

 

本展の会場となったのは西本願寺敷地内の聞法会館。仏前結婚式や法話会、講演会なども行われる宿坊です。温暖化の影響で年々ずれ込む紅葉シーズンは、今年の猛暑の影響からか、12月でも銀杏黄葉の葉を残し、冬 季の澄んだ空気に包まれた寺院には、中高生の修学旅行や親鸞聖人生誕 850 年の記念年にお参りしようという参拝客などがたくさん訪れていました。京都の街自体も、ようやくコロナ禍前のにぎわいを取り戻し、世界各地からの外国人観光客や、全国からの旅行者が観光スポットを訪れていました。

 展覧会場内には、京都の伝統工芸品である西陣織をアレンジし 、硝子の飾り皿という新たな姿に昇華したものに文芸作品をしたためた器や 、京友禅生地や書道文字で彩った掛軸作品、作品の世界観に合わせたデザイン画で仕立てた詩のアートパネル等 、親鸞聖人の御仏壇の前で日本の芸術家たちの粋を集めた作品達が並びました。
 開催期間中は、小さな子供さんから文芸を嗜んでいるというご年配の方や、ご家族連れ、仏教関係者等、非常に多くの方にご来場頂くことができました。作品を鑑賞頂いた方からは、「どれも読みやすい内容で共感できるものが多かった」、「久しぶりの京都旅行の良い思い出になりました」、「仏の教えにも通ずるような作品も拝見できた」等、嬉しいお声を多数頂き、本展覧会の開催意義が十分に果たせた手応えを感じることができました。

 浄土真宗のみ教えの中には、「生かされていることに感謝して むさぼり 怒りに流されず喜びも悲しみも分かち合い日々に精一杯つとめる」という言葉があります。様々な世界事情にみまわれた 2023年、新たな年となっても思いもよらない難
事が私たちを襲います。そんな状況の中でも、800 年前の親鸞聖人の言葉に学び、今生きている奇跡に感謝し、助け合い の心を持って乗り越えていかなければならないと感じました。
言葉を通じての繋がりが微力ながらその一助になれば幸いです。最後になりましたが、今回の「親鸞聖人生誕 850年記念 安楽の祈り」の成功はご参加頂いた皆様のお力添えあってのものということはいうまでもございません。心から感謝致しますと共に皆様のご健康と益々のご発展を心よりお祈りしております。誠にありがとうございました。

2023-07-06 00:00:00

HAWAII / 日本文化センター

ハワイ / 日本文化センター

日本ハワイ移民155周年記念「虹の芸術祭」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1194864

-  常夏の楽園 ブルーハワイ -

 

 

 つきぬける青空とエメラルドグリーンの海の境目がまじりあい碧く伸びる水平線、小麦色の砂浜が広がる世界屈指の観光リゾート地、ハワイ・オアフ島。最も近い大陸から3000km以上離れた絶海の孤島でありながら、海も山も都会も田舎もすべてがそろった唯一無二のリゾートアイランドです。日系移民がもたらした文化や食が根づき、「ひな祭り」「盆踊り」「灯籠流し」などの日本の行事も行われるなど、一度訪れれば誰もが魅了される島である。

移民の歴史はハワイの砂糖産業の発展と深い関わりがあります。ハワイの砂糖産業は1830年代に西洋人の手によって開始され、米国への輸出を増加させていきました。しかし、西欧人の来島とともにもたらされた病気等が原因でネイティブハワイアンの人口は減少。砂糖農園は多くの労働人口を必要とするため、ハワイ王国は1852年に外国からの移民の受入れを決定します。日本の記録によると1860年、勝海舟、ジョン万次郎等を乗せた咸臨丸が補給のためにホノルルに寄港した際、カメハメハ4世に謁見し、日本からの移民を要請されました。そして明治元年(1868)、幕末の混乱期に、後に「元年者」と呼ばれる150名の移民が横浜からハワイに渡りました。その後、多くの日本人が農地で数年働いて財を成し、帰国しようと考え、太平洋を渡りましたが、現実の労働は休憩時間もほとんど無く、鞭で打たれることもあるなど非常に厳しく、農地に居つかざるをえない状況になりました。

移民一世は農園へ出稼ぎに来ていたので、社会的地位も低かったと言われています。親の苦労を見て育った二世たちは努力し、公立学校では英語教育を受け、日本語学校では日本と同じ修身の授業が行われるなど、勉強を重ねましたが、そんな中、太平洋戦争が起こってしまいます。日系二世達は米兵として徴兵されるなど過酷な運命を辿りましたが、戦争終了後にはアメリカにおける日系人の地位向上のため、復員兵援護法を利用し、大学に進学する者も増え、教養をつけて政治家や教師、弁護士や医師などの職に就く者が多くいました。現在、ハワイの人気店でもあるマツモトシェイブアイスやABCストア等も日系移民が始めたお店です。他にも、戦後初の日系議員となったダニエル・K・イノウエ、ハワイ州で初の日系知事となったジョージ・アリヨシ、戦後日本プロ野球界初の外国籍選手として読売巨人や中日ドラゴンズで活躍したウォーリー・ヨナミネ(与那嶺要)等、多くの二世が活躍し、日系人の社会的地位向上に貢献しました。

このように、戦後から現在に至るまでのハワイの発展ぶりは日系人の活躍なくしては成立しませんでした。アメリカであって日本でもある。先人達のたゆまぬ努力によりハワイ社会と日本の絆が形成されていったのです。

 

 

 

 

- 継がれゆく伝統 つながるアロハスピリット-

 

 

  本展の会場となったJapanese Cultural Center of Hawaii(日本文化センター)はワイキキから程近く、ハワイ大学の南側、日系人も多く住むモイリイリ地区にあります。日本から移民した父母や祖父母から受け継いだ文化と歴史を後世に残そうと1987年に設立されました。155年前に初めて日本からこの島に来た先駆者達が祖国を離れ、どのような夢を描き、海を渡ったのか。そして重労働や差別、戦争に耐え、果敢に戦った歴史が当時の街並みを再現した資料と影像で展示されています。展示ギャラリーの入り口には日系移民達が大切にしていた「恩」「我慢」「感謝」「頑張れ」「誇り」等の言葉が石柱に刻まれおり、当時の生活や精神を感じさせます。

本展覧会場には色とりどりの掛軸や屏風、美術、書道、工芸作品等を並べ、ハワイでは中々見ることのできない日本のアーティストの作品を鑑賞して頂きました。期間中は武道場で剣道の稽古が行われたり、日本の衣服、雑貨のマーケットの開催など様々な行事が行われていました。世界的観光地という土地柄もあり、日系の方を中心に白人、黒人、アジア系等、様々な国、人種の人々に日本の誇る芸術を鑑賞頂きました。現地の日本県人会の方や、宣伝のポスターやインターネットのSNSで開催を知って見に来てくれた人、欧米からの旅行客で、YouTubeで日本語を学び、熱心に作品を眺めていた10代の若者など、日本文化が言葉の壁を越えて世界にも通じる芸術世界を確立していることを確信できました。

ハワイはレインボー・ステイト(虹の州)と呼ばれるほどよく虹が見られます。免許証や車のナンバープレートにも虹のモチーフがデザインされており、神話でも天界と下界をつなぐ懸け橋と考えられています。会期中、会場の大きな窓ガラス越しの山に降ったスコールの後に虹が現れ、偶然にも展示作品の背景に虹がかかるといった幻想的な瞬間を目にすることができたのは、まさに天界の先人達と今回の作品たちが懸け橋でつながった奇跡的な一瞬であったように感じました。

ハワイアンのことわざに「NO RAIN, NO RAINBOW(雨が降らないところに虹は出ない)」という言葉があります。昨今、戦争やパンデミックの影響による資源の高騰、物価上昇、環境破壊による異常気象など、新たな困難が我々を襲っています。しかし、辛い時代を自らの力で切り開いていった移民者の精神に学び、何事も苦労の後にはきっと虹のように明るい未来が待っていると信じて、今回の日系移民文化交流を無事終える事ができました。

 最後に、今回の「日本ハワイ移民155周年記念 虹の芸術祭」が開催できましたことは、ご協力頂いた関係者、作者の方々のお力によるものということは言うまでもありません。心から感謝致しますとともに、皆様の益々の発展とご健康をお祈り申し上げます。

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