EVENT NEWS

2022-12-16 00:00:00

福岡 / 太宰府館

福岡 / 太宰府館

太宰府文芸祭「詩楽の歌」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1157760

- 古代国交の要衝地 -

 

彩り豊かに紅葉した木々も段々と冬木となり、陽の短さをいっそうに感じる歳末の十二月。福岡県太宰府にて「太宰府文芸祭 詩楽ノ歌」を開催させて頂きました。太宰府市は、中世の昔に日本の西の要地であった大宰府政庁跡やそれを囲む城、天神様を祀る太宰府天満宮があり、今も人々に親しまれている日本屈指の観光地です。

7世紀後半に九州筑前国(現在の福岡県の大部分)に置かれた地方行政機関が大宰府であり、軍事・外交や防衛、九州地方の内政も行い、その権限の大きさと立地から「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれていました。大宰府政庁跡には主な建物として、政庁、学校、税司、薬司、警固所、兵馬所などがあったとされ、国の特別史跡に指定されています。また、現在の元号である「令和」の起源となった「梅花の宴」が行われた大伴家持邸跡があったといわれる坂本八幡宮や、縁結び厄除け神社としても有名な竈門神社など、訪れる価値のあるスポットが数多くあります。

その中においても、太宰府天満宮は年間約1000万人の観光客が訪れ、天神様をお祀りする全国12,000社の天満宮の総本宮としても知られています。九州最大級の規模を誇るお社であり、菅原道真公の御心霊を祀り、学問・受験の神様として全国各地から合格祈願を祈る受験生や多くの参拝客が訪れます。鳥居をくぐり、本殿までは池にかかる3つの朱塗りの橋を渡りますが、上から見ると漢字の「心」の形になっていることから「心字池」と名付けられています。この3つの橋は過去・現在・未来の三世一念を表し、これを渡ることによって三世の邪念を祓い、参拝者の身を清めるとも言われています。古代建築の妙を感じながら悠久の流れを感じることのできるお宮です。

桃山時代の豪壮華麗な様式を伝える現在の御本殿は1591年に再建されたもので、国の重要文化財に指定されていますが、実は天満宮は20235月から124年ぶりの大改修が行われることがアナウンスされており、展覧会開催時期は今の御本殿に参る最後の機会とも重なりました。

類いまれなる才能を世のために発揮し、左遷されても最後まで誠心を尽くし、生涯を讃えられた道真公への崇敬は学者や政治家だけにとどまらず、禅宗の僧、寺小屋の子供たちなど幅広い層にまでおよび、文道の祖また至誠の神としての信仰が広がりました。ここを訪れると、不遇な時でも誠意をもって取り組む心は現代の我々にも通ずる気持ちであることを改めて感じます。

 

- コトダマ 雪華に舞う -

 

 本展の会場は、天満宮の参道沿いに位置し、多くの土産物屋や、道真公を埋葬する際、彼が愛した梅と餅を一緒にお供えしたという故事に由来する名物菓子、梅ヶ枝餅などを販売する飲食店が軒を連ね、師走の寒さの中でも活気に溢れていました。開催期間中は、修学旅行で訪れる中・高生の団体や、地元の家族連れ、地方からの参拝客など、秋から始まった全国旅行支援制度の影響もあり、初日から沢山の人に作品を鑑賞してもらうことができました。三日目には大粒の雪が降り、御本殿や、庭園も冬化粧がなされ、いつもと違った天満宮の表情に、集まった人々もカメラを片手に思い出を写真に残していました。

 今回は、全国各地の詩歌作家の作品を九州ゆかりの有田焼のお皿に焼き付けたり、金箔の箔押し紙に写し、博多織の額で装飾し、従来とはまた違った形で作品を鑑賞して頂きました。

展示期間中には、「今まで触れたことのない日本の芸術に出会って感無量でした」、「ちょうどテレビなどでも詩歌が取り上げられているので自分もやってみたいと興味を持った」、「子供たちや友達にも見せてあげたいので我が町でも開催して欲しい」など、場所柄か、老若男女色々な世代の方からのご意見、ご感想を頂きました。今回の展覧会タイトル通り、「詩歌を楽しむ」ということを存分に味わって頂けたように感じます。

 コロナ禍も三年が経ち、これまでの外出自粛の緩和や旅行など、巣ごもりの生活スタイルが徐々に変化してきている中、日本芸術のまだ見ぬ作品を無事にご鑑賞頂けたことは大きな喜びであり、これからの世代にも繋がっていく可能性を大いに感じられた催しとなりました。太宰府で生まれた令和という言葉には、「人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つ」という意味が込められています。人の心を動かすのは人の言葉、想いの込められたコトダマにこそ、永代に続く人の魂が語り継がれていくのだと確信しました。

 最後に、今回の「太宰府文芸祭 詩楽ノ歌」が開催できましたことは、ご協力頂いた各関係者様、素晴らしい作品を作り上げた作者の方々のお力によるものということは言うまでもありません。心から深く感謝申し上げるとともに、皆様のこれからの益々のご発展、ご健康をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

2022-06-24 00:00:00

沖縄 / 沖縄県立博物館・美術館

沖縄 / 沖縄県立博物館・美術館

沖縄本土復帰50周年「美ら島芸術祈願祭」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1131063

- 南海の楽園 美ら島 -

 

 沖縄県は日本列島の南西端に位置しており、南北約400km、東西約1000kmと広大な海域に49の有人島と多数の無人島が点在し、構成されています。亜熱帯気候特有の暖かい気候で年間平均気温は23℃前後、6月下旬の梅雨明けから本格的な観光シーズンが始まり、旅行客も増えてにぎわいを見せます。

飲食店や土産物屋が並ぶ国際通り、美しいビーチ、世界最大級の水槽を持つ美ら海水族館、ひめゆり学徒の御霊を慰霊するひめゆりの塔など、沖縄には観光や大自然の絶景、歴史を物語る重要スポットがいくつもあります。2019年の火災で主要な建造物が焼失した首里城公園も、20206月からは段階的に遺構・残存物の公開を開始し、復興を目指しています。今年の沖縄地方は例年より1週間程早く梅雨が明け、一気に日差しも強まり、夏本番の絶好の青天続きの中、展覧会を迎えることができました。

 

 

- 琉球王朝から日本の一員へ 戦後統治下 -

 

 沖縄は日本、中国、東南アジアにも近いため「東アジアのヘソ」と呼ばれ、古来よりそれらの国々との交易を行いながら国際色豊かな文化を育み、栄えていきました。先住民は約18000年前に大陸から渡ってきたとされ、本州の鎌倉時代にあたる頃には、実力者が各地にグスク(城塞)を築く三山時代に入ります。そしてこれを統一した尚巴志(しょうはし)1429年に王朝をおこし、初代琉球王国を打ち立てます。アジア各地との貿易も盛んになり、この頃に泡盛、紅型、三線といった琉球文化の基礎が流入し、繁栄しました。その後、江戸幕府に組み込まれた琉球は独立国の体裁を保っていましたが、明治以降、1879年の廃藩置県により沖縄県となり、450年続いた王朝は終焉を迎えました。

 昭和に入り太平洋戦争に突入すると、沖縄の島々には飛行場が建設され、アジアの前線基地の色合いが濃くなります。日本は敗戦を重ね形勢不利となり、度重なる空襲により那覇市は炎上、1945年に連合軍が本島へ上陸して繰り広げられた地上戦は多くの犠牲者を出しました。終戦後、アメリカ軍統治下になりますが、現地での祖国復帰運動や、世界で批判されたベトナム戦争での米軍の出撃拠点に使われたこともあり、反米感情が高まり、27年後の1972年に日本へ復帰。米軍基地を維持したままでの不完全な返還は今も続く基地問題としてそのしこりを残すこととなりました。

 統治時代は本土渡航にパスポートが必要であったり、米軍物資の影響でコンビーフやステーキなどの食生活の変化、ジャズやロックの流入など、その後の沖縄の食・文化にも大きな影響を与えました。県の工芸品、琉球ガラスも元は、戦後の資源難のため、コーラやビールの瓶の再利用から始まったものです。

沖縄は長い歴史の中で王朝、日本への帰属、アメリカ統治、そして本土復帰と様々な経験をし、47都道府県の中でも独自の道を歩んできました。米軍による統治は返還から50年経った現在も種々の影響を残しています。

 

 

- 未来へつながるアートの懸け橋 -

 

 本展の会場となった沖縄県立博物館・美術館は、再開発の進む新都心・おもろまちに位置します。ここは那覇市北部にあたり、米軍基地返還に伴い整備された一大再開発地です。約214万㎡の面積のうち、元米軍基地は192万㎡を占め、大型ショッピングセンターや映画館、オフィスビルが建設され、県立博物館・美術館では郷土作家の絵画や彫刻、写真などを鑑賞できます。外観はグスクをモチーフにした斬新な建築デザインで目を引き、古代から琉球王朝時代、戦中戦後の沖縄の歴史や文化の興味深い展示や、企画展も充実し、沖縄の観光スポットとしても注目されています。

本展覧会は夏の観光シーズンとコロナ第7波到来前のタイミングであったということもあり、地元の方々や県外からの来沖客など、沢山の方にご来場頂くことができました。作者の方の想いを多様な表現で表した作品をご覧頂き、「深い思いに胸を打たれた」、「この展覧会を通じて沖縄という場所の立場、歴史を若い方にも考えてもらうきっかけになってくれれば嬉しい」といった声を頂きました。

 戦後77年、そして沖縄返還からようやく半世紀。日本にとって節目となる年に起こったヨーロッパでの戦争。それは様々な形で波及し、世界は大戦後に築かれてきた秩序から大きく変化を迎えようとしています。我が国も東アジアの安定に関して地政学的にも重要な場所に存在し、海の向こうの出来事と無関係ではありません。本展の開催意義は、これまでの歴史や世界で起きていることを認識し、平和のため、子供たちの笑顔を守るために個々がどうしていけばいいかを考える契機になればと願い、微力ながら沖縄返還50周年という節目での催しをさせて頂きました。この小さな波紋が大きく広がり、やがて凪のように穏やかに人々の心を平和への想いに導いていければと願います。

 最後に、今回の「沖縄本土復帰50周年 美ら島芸術祈願祭」を無事に開催できましたのはご協力頂いた関係者の皆様、素晴らしい作品を創作された作者の方々のお力あってのことはいうまでもありません。心より深く御礼申し上げるとともに、皆様のこれからの益々のご発展、ご健康をお祈りしております。

2021-12-17 00:00:00

京都 / 知恩院

京都 / 知恩院

京都芸術祈願祭 「安穏の祈り」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1114947 

 - 南無阿弥陀仏 人々を照らす希望の教え -

 

 風冴ゆる玄冬の京の都。千古の昔からの寺社仏閣が立ち並び、歳末のにぎわいにつつまれた古都の代表的観光地である東山の町並みは、冬茜の陽に照らされ、光る粉雪のごとくきらきらとした輝きを帯びていた。その数ある寺院の中でも京都を代表する名刹にして800年以上の旧史をもつ知恩院の敷地内には美しい冬紅葉が首をもたげ、年の暮れの祈祷に訪れる参拝者達を歓迎していました。

 

 寺院の入り口には、高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚を誇り、その構造・規模において日本最大級の木造門、かつ国宝でもある「三門」が構えています。その楼上内部は通常非公開になっていますが、中は仏堂となっており、中央に宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像(いずれも重要文化財)が安置されています。門をくぐると、急な男坂、緩やかな女坂があり、その先には、三門と同じく国宝に指定され、法然上人像が設置されている御影堂、そしてその西に位置する阿弥陀堂には浄土宗の本尊・阿弥陀如来が、それぞれ仁愛のお顔で人々を見守っておられます。

 

 知恩院は浄土宗の開祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院であり、江戸時代には徳川幕府の庇護を受け、壮大な伽藍(がらん)ができました。建築物内には多数の不思議な言い伝えが残っており、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼に知恩院を守ることを約束して置いたという「忘れ傘」。狩野信政筆の絵で親猫が子猫を愛しむ姿が見事に表現され、どちらから見ても見るものを正面からにらんでいるように見える「三方正面真向の猫」など、長尺の歴史の中に様々な伝説が伝わります。

 

 法然上人は平安時代末期に豪族の子として生まれましたが亡き父の遺言により出家します。法然の生きた時代は保元の乱(1156)、平治の乱(1159)といくさが続き、地震や飢饉に襲われ、また、釈迦の入滅後、仏の教えが衰え、乱世になるという「末法思想」も人々の間で広がっていました。法然は厳しい求道の日々を重ね、43歳で唐の善導大師の観経の疏の書を読み、苦悩から解き放たれます。阿弥陀仏を称えれば誰もが必ず救われるという教えは、「末法の世」の中で万人の救いとして瞬く間に民衆に受け入れられていきました。当時の日本で、限られた一部の人のためであった仏教が、民衆へと広まるきっかけとなったのです。やがて貴族や武士にも広まり、上皇、天皇までもが法然から授戒を受けます。浄土真宗の開祖となる親鸞も、法然の薫陶を受けています。鎌倉時代に隆盛した他の仏教も、出家せずとも救われるという教えは共通していて、法然が鎌倉仏教の先駆けとなったと言えます。法事などの場で、唱えることも多い南無阿弥陀仏。そこにはさまざまな教えが込められています。法然が明快で誰にでも実践できる「専修念仏」の教えを広めたことが、今日の日常にある仏教に繋がっています。

 

 

- 京に彩られた詩歌のコトダマ -

 

 会場となった知恩院和順会館は知恩院「三門」前の緑豊かな場所にあり、晨朝法要への参加、写経体験、宿泊等ができる施設です。中庭には、父の遺言を胸に、希望を持って比叡山へと向かう若き日の法然上人(幼名:勢至丸)の像があり、その傍らには幼い勢至丸に大きな影響を与えた、父・時国公、母・秦氏君、叔父・観覚得業、の御三方を表す、景石3石(三尊石)があります。また、ギャラリーでは総本山知恩院や浄土宗・法然上人に関する展示を行っており、併設されるライブラリースペースでは知恩院や法然上人に関する図書が拝読できるようになっております。

 

 本展の会期中は、盆地ゆえの底冷えの気候も和らぎ、穏やかな気候に恵まれ、たくさんの方に作品を鑑賞して頂くことができました。立地的、歴史的に観光客や参拝客、特に修学旅行生の学生などが多く、本展にも全国からの中、高校生が訪れ、学校の授業で習う詩歌とはひと味違った作品に大きな関心を示し、「作者の方々はどのような想いで作品を作ったのか?」、「現代の言葉で読みやすく作られているので、教科書に載っている作品よりも身近に感じ取れました。」等、様々な感想や質問を頂く場面も多々見受けられました。現在、依然として世界はパンデミックの中にあり、日本においても希望の見えない明日に悲観し、落胆してしまう人たちも増えています。しかし、本展に訪れて頂いた方々の笑顔を見ると、そんな状況でも心の通った言葉に出会うことで、少しでも暗闇に差す一筋の光となれたのではと感じることができました。「冬来たりなば春遠からじ」。コロナ禍の今こそ心を一つにし、未来を信じ、勇気を持って乗り越える強さを持ちたいと感じる催しとなりました。

 

 最後に、今回の「京都芸術祈願祭 安穏の祈り」が無事に開催、成功できましたのは作者の方々の並々ならぬお力であることはいうまでもありません。心より、感謝、御礼申し上げますとともに皆様のご健康、ご発展をお祈り申し上げます。

2021-07-30 00:00:00

名古屋 / 熱田神宮

熱田神宮

愛知芸術祈願祭 「安息の祈り」PHOTO GALLERY

 https://seiransha.jp/photo/album/1114948

慈しみの神宿る古社 厄災祓いの神剣の聖域 -

 

 

 巨大な入道雲が空に沸き立つ真青な炎天のもと、夏木立の涼を感じる熱田の杜の中、日本有数の宮様である熱田神宮文化殿宝物館内において、新型コロナウィルス早期収束祈願を願う「愛知芸術祈願祭 安息の祈り」が開かれました。

 熱田神宮は創建約1900年、その昔、素戔嗚尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治した際にオロチの尻尾からでてきたといわれる三種の神器の一つ、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)が熱田の地に鎮座し、これを御霊代として日本の主神である天照大神(あまてらすおおみかみ)をご祭神に祀ったことから始まります。森林に囲まれた約6万坪の境内には、本宮、別宮外43社が祀られ、かの弘法大師お手植えと伝わる樹齢1000年の大楠や、平安時代の歌人・西行法師が旅の途中で休息し、歌を詠んだという二十五丁橋など、各所に名所が点在します。

 そして本展の会場となった文化殿宝物館には、長い歴史の中から朝廷や代々の幕府、戦国武将から寄進された多数の宝物が所蔵されており、その内容は刀剣や書跡、絵画、彫刻、工芸など、国宝や重要指定文化財に登録されているものを含め、6000点余りにものぼります。また、熱田神宮を含む名古屋の地は、戦国三英傑といわれる武将たちとも深い関わりをもっています。

 尾張に生まれた織田信長は神仏を信じない“うつけ者“と呼ばれましたが、今川義元との桶狭間の戦いの前に熱田神宮へ訪れ、先勝祈願の願文を奉納しています。いくさの直前に熱田に到着し、「熱田大神の力を借り勝利したい」と祈願すると白鷺が舞い降りる吉兆が現れたといいます。

 見事勝利した信長は草薙神剣の加護に感謝し、「信長塀」と呼ばれる土塀を奉納し、今も日本三大土塀の一つとして境内に120mの土塀が残っています。太閤豊臣秀吉は現在の名古屋市中村区生まれといわれ、地下鉄中村公園駅のほど近く、常泉寺という寺で生誕したと伝わっており、境内の中には秀吉の産湯として使った「豊太閤産常湯の井戸」が残されています。そして江戸幕府を開き、約260年の天下泰平のいしずえを築いた徳川家康は幼い頃、松平から駿府の今川へ人質として預けられることとなりましたが途中でさらわれ織田の配下に置かれてしまいます。織田信秀の命によりこの地の有力者であった加藤順盛の屋敷に預けられ、幼少時代の2年を熱田で過ごし、この時に織田信長と知り合ったといわれています。天下統一を目指し覇権を争った戦国武将たちも、熱田の地に対しては特別な想いや不思議な力を感じていたのは現代に生きる私たちと共通しているのかもしれません。熱田神宮はそんな歴史の移り変わりをみてきた神聖なる古社でもあります。

 

 

神への祈り 安息への想い -

 

 本展の会期中、名古屋市は緊急事態宣言等もなく、神宮には地元の参拝客を中心として色々な方のご来場を頂きました。特に最終の日曜日は熱田神宮に古くから伝わる「朔日(ついたち)参り」の日でもありました。これは毎月1(朔日)に、1ヶ月を無事に過ごせたことへの感謝と、新しい月の無病息災・家内安全・繁栄等を祈念する風習であり、熱田区のまちづくり団体「あつた宮宿会」により、2016年から「あつた朔日市」が開催されています。熱田に縁のある店が敷地内に出店として並びにぎわう中の目玉が「朔日市限定あつた宮餅」です。ひつまぶしで有名な「あつた蓬莱軒」と、名古屋土産でおなじみ「きよめ餅総本家」、熱田で愛される和菓子屋「亀屋芳広」、ほうじ茶が人気のお茶屋「妙香園」という、熱田区の老舗4社がコラボし、月替わりの味も楽しめる特別な5つ入りの宮餅です。お昼までには完売してしまうこの人気商品を求めて来られる地域の方や、宝物を見学に来られる方など、様々なご来館がありました。

 展示会場となる文化殿宝物館内には解放感ある天井高を生かし、5m近くのアケビの木やユリやアジサイの花などの植物と季節の花を中央から左右に伸びるようにあしらえ、その周りに芸術作品たちを配置し、緑豊かな自然の中にある神宮と溶け込むように会場内をデザイン致しました。訪れた来場者や会場関係者の方にも「こんな展示会をこの熱田神宮で見たことがない、本当に素敵です」、「芸術作品の新たな魅力に気づかされました」等、多数のご意見、ご感想を頂き、想像以上の大きな反響を頂くことができました。

 2021年現在もいまだにおさまる気配のないコロナ禍において、ワクチン不足や変異株の流行など、人々の心も憔悴、閉塞し、大切な人とも自由な交流ができず、元の人間らしい生活が取り戻せていない日々が続いています。しかしながら、本展覧会によって微力ながらでも束の間の安らぎを心に感じて頂き、また、唯一無二の素晴らしい作品を通じて熱田に祀られるいにしえの神々と、厄災や邪気を祓う力を宿す神器である宝刀に、1日でも早い安息の日が戻るよう想いを込めて祈りを捧げさせて頂きました。

 今回、このような状況の中でも大きな成功を収めることができましたのは、ひとえに作者様の素晴らしい作品、ならびに関係者様の多大なるご協力のおかげであります。あらためまして今後の皆様方のご健康、ご発展を祈り、心より御礼申し上げます。

 

 

2020-12-18 00:00:00

奈良 / 奈良県文化会館

奈良県文化会館

大和ノ国芸術祈願祭「安寧の祈り」PHOTO GALLERY

https://seiransha.jp/photo/album/1018323

 すべての人を救う廬舎那大仏、永久の想い -

 

 青天の気候に恵まれ、焔に彩られた紅葉もその多くがまだ残る中、古都奈良において、激動の年であった2020年の締め括りとなる「東大寺大仏殿復興830年記念 大和ノ国芸術祈願祭」を執り行わせて頂きました。

 東大寺が創建されるきっかけは、728年に聖武天皇の最愛の皇太子が幼くして逝去され、また、地震や飢饉、そして天平の大疫病といわれる天然痘の大流行により、社会的な不安が国民を襲い、その数々の疫病や災難を仏教に帰依することで国家を守る鎮護国家という考えから国分寺として建立されました。大仏殿に鎮座する本尊の巨大な廬舎那仏は華厳経の教主であり、その名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏という意味です。左手は宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわし、人々が思いやりの心で繋がり、絆を深めることを願っておられます。

 華厳経の経典の教えには、動植物も含めたすべての生きとし生けるものの繁栄を願い、人々の苦しみを救済しようとする菩薩の行いを実践し、互いの思いやりの心をつなげていく、という文言があります。様々な困難に見舞われた聖武天皇は、人々が思いやりの心で繋がり、子供たちの命が次世代に輝くことを真剣に考え、動植物も共に栄えることを願いました。   

 さらに造像にあたっては、「一枝の草、ひとにぎりの土」の助援を呼びかけ、国民に結縁を求め、助力によって完成しようとした点に、従来の官大寺建立とは明らかに異なるものがありました。

 本来であれば56年ぶりのオリンピックが日本で開催され、日本人選手の明るい話題で盛り上がったであろう2020年が『失われた一年』とも呼ばれ、長期の自粛や巣ごもりで人々の心が疲弊し、テレビからは訃報や悲しいニュースの多い年となってしまいました。本展では東大寺の成り立ちの由来や節目に際して、今も猛威を振るう新型コロナウィルスの早期収束の想いを神仏に届けるとともに、疫病の影響により仕事や健康、生活に悪影響を受けてしまったすべての人々に芸術の素晴らしさによって少しでも心の癒し、豊かさを取り戻して頂ければと願い、開催させて頂きました.

 

 

日本芸術、至高の言葉とアーティスト達の共演 -

 

 会場は世界遺産である東大寺や春日大社、興福寺からほど近く、目の前には奈良公園があり、奈良の名物である鹿が多くいます。「奈良の鹿」は国の天然記念物に指定されている野生動物であり、所有者はいません。767年(天平神護3年)に春日神社が創建され、その由来で主神の建御雷命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から遷る際に白鹿に乗ってきたとされ、神の使いとして神鹿(しんろく)と尊ばれるようになったという説があります。

 神鹿は会場建物の目の前にまで現れ、乾いた空気に白息がまじる師走の空気の中、地元の芸術愛好家や、大学の学生さん等、多様な方々がご来場頂き、日本人が生み出す唯一無二のアート、工芸と言葉との融合を楽しんで頂けました。繊細な手作業や柔軟な思考から生み出された生きた作品たちをご覧になり、評判を聞いて翌日来場頂いた方など、作者の作品に込めた思いがこれ以上なく人の心に広がっていったことを確信しています。

 2020年はまさに歴史を揺るがす年であり、あらゆる意味で忘れることのできない一年になりました。しかし、どんな厄災や困難がふりかかろうとも、1300年前に聖武天皇が国民に団結を呼びかけ、思いやりの心をつなげていくことを願ったように、人の想いこそが永遠であり、不滅であると感じます。東大寺や薬師寺といった仏閣も早期の疫病収束祈願を続けており、弊社としても祈願をさせて頂き、今回の展示を通じて医療従事者の方々に少しでも支援がとどくよう、赤十字に寄付をさせて頂きました。ご協力頂いた作者の方々には本当に厚く御礼申し上げます。

 本展の成功はいうまでもなくご協力頂いた作者の方々のお力添えの賜物であり、誠にありがとうございました。あらためて今後も皆様方の益々のご発展とご健康を心よりお祈り申し上げます。

 

 

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