EVENT NEWS
2021-12-17 00:00:00
京都 / 知恩院
京都芸術祈願祭 「安穏の祈り」PHOTO GALLERY
https://seiransha.jp/photo/album/1114947
- 南無阿弥陀仏 人々を照らす希望の教え -
風冴ゆる玄冬の京の都。千古の昔からの寺社仏閣が立ち並び、歳末のにぎわいにつつまれた古都の代表的観光地である東山の町並みは、冬茜の陽に照らされ、光る粉雪のごとくきらきらとした輝きを帯びていた。その数ある寺院の中でも京都を代表する名刹にして800年以上の旧史をもつ知恩院の敷地内には美しい冬紅葉が首をもたげ、年の暮れの祈祷に訪れる参拝者達を歓迎していました。
寺院の入り口には、高さ24m、横幅50m、屋根瓦約7万枚を誇り、その構造・規模において日本最大級の木造門、かつ国宝でもある「三門」が構えています。その楼上内部は通常非公開になっていますが、中は仏堂となっており、中央に宝冠釈迦牟尼仏像、脇壇には十六羅漢像(いずれも重要文化財)が安置されています。門をくぐると、急な男坂、緩やかな女坂があり、その先には、三門と同じく国宝に指定され、法然上人像が設置されている御影堂、そしてその西に位置する阿弥陀堂には浄土宗の本尊・阿弥陀如来が、それぞれ仁愛のお顔で人々を見守っておられます。
知恩院は浄土宗の開祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院であり、江戸時代には徳川幕府の庇護を受け、壮大な伽藍(がらん)ができました。建築物内には多数の不思議な言い伝えが残っており、このあたりに住んでいた白狐が、自分の棲居がなくなるので霊巌上人に新しい棲居をつくってほしいと依頼し、それが出来たお礼に知恩院を守ることを約束して置いたという「忘れ傘」。狩野信政筆の絵で親猫が子猫を愛しむ姿が見事に表現され、どちらから見ても見るものを正面からにらんでいるように見える「三方正面真向の猫」など、長尺の歴史の中に様々な伝説が伝わります。
法然上人は平安時代末期に豪族の子として生まれましたが亡き父の遺言により出家します。法然の生きた時代は保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)といくさが続き、地震や飢饉に襲われ、また、釈迦の入滅後、仏の教えが衰え、乱世になるという「末法思想」も人々の間で広がっていました。法然は厳しい求道の日々を重ね、43歳で唐の善導大師の観経の疏の書を読み、苦悩から解き放たれます。阿弥陀仏を称えれば誰もが必ず救われるという教えは、「末法の世」の中で万人の救いとして瞬く間に民衆に受け入れられていきました。当時の日本で、限られた一部の人のためであった仏教が、民衆へと広まるきっかけとなったのです。やがて貴族や武士にも広まり、上皇、天皇までもが法然から授戒を受けます。浄土真宗の開祖となる親鸞も、法然の薫陶を受けています。鎌倉時代に隆盛した他の仏教も、出家せずとも救われるという教えは共通していて、法然が鎌倉仏教の先駆けとなったと言えます。法事などの場で、唱えることも多い南無阿弥陀仏。そこにはさまざまな教えが込められています。法然が明快で誰にでも実践できる「専修念仏」の教えを広めたことが、今日の日常にある仏教に繋がっています。
- 京に彩られた詩歌のコトダマ -
会場となった知恩院和順会館は知恩院「三門」前の緑豊かな場所にあり、晨朝法要への参加、写経体験、宿泊等ができる施設です。中庭には、父の遺言を胸に、希望を持って比叡山へと向かう若き日の法然上人(幼名:勢至丸)の像があり、その傍らには幼い勢至丸に大きな影響を与えた、父・時国公、母・秦氏君、叔父・観覚得業、の御三方を表す、景石3石(三尊石)があります。また、ギャラリーでは総本山知恩院や浄土宗・法然上人に関する展示を行っており、併設されるライブラリースペースでは知恩院や法然上人に関する図書が拝読できるようになっております。
本展の会期中は、盆地ゆえの底冷えの気候も和らぎ、穏やかな気候に恵まれ、たくさんの方に作品を鑑賞して頂くことができました。立地的、歴史的に観光客や参拝客、特に修学旅行生の学生などが多く、本展にも全国からの中、高校生が訪れ、学校の授業で習う詩歌とはひと味違った作品に大きな関心を示し、「作者の方々はどのような想いで作品を作ったのか?」、「現代の言葉で読みやすく作られているので、教科書に載っている作品よりも身近に感じ取れました。」等、様々な感想や質問を頂く場面も多々見受けられました。現在、依然として世界はパンデミックの中にあり、日本においても希望の見えない明日に悲観し、落胆してしまう人たちも増えています。しかし、本展に訪れて頂いた方々の笑顔を見ると、そんな状況でも心の通った言葉に出会うことで、少しでも暗闇に差す一筋の光となれたのではと感じることができました。「冬来たりなば春遠からじ」。コロナ禍の今こそ心を一つにし、未来を信じ、勇気を持って乗り越える強さを持ちたいと感じる催しとなりました。
最後に、今回の「京都芸術祈願祭 安穏の祈り」が無事に開催、成功できましたのは作者の方々の並々ならぬお力であることはいうまでもありません。心より、感謝、御礼申し上げますとともに皆様のご健康、ご発展をお祈り申し上げます。
2021-07-30 00:00:00
名古屋 / 熱田神宮
愛知芸術祈願祭 「安息の祈り」PHOTO GALLERY
https://seiransha.jp/photo/album/1114948
- 慈しみの神宿る古社 厄災祓いの神剣の聖域 -
巨大な入道雲が空に沸き立つ真青な炎天のもと、夏木立の涼を感じる熱田の杜の中、日本有数の宮様である熱田神宮文化殿宝物館内において、新型コロナウィルス早期収束祈願を願う「愛知芸術祈願祭 安息の祈り」が開かれました。
熱田神宮は創建約1900年、その昔、素戔嗚尊(すさのおのみこと)がヤマタノオロチを退治した際にオロチの尻尾からでてきたといわれる三種の神器の一つ、草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)が熱田の地に鎮座し、これを御霊代として日本の主神である天照大神(あまてらすおおみかみ)をご祭神に祀ったことから始まります。森林に囲まれた約6万坪の境内には、本宮、別宮外43社が祀られ、かの弘法大師お手植えと伝わる樹齢1000年の大楠や、平安時代の歌人・西行法師が旅の途中で休息し、歌を詠んだという二十五丁橋など、各所に名所が点在します。
そして本展の会場となった文化殿宝物館には、長い歴史の中から朝廷や代々の幕府、戦国武将から寄進された多数の宝物が所蔵されており、その内容は刀剣や書跡、絵画、彫刻、工芸など、国宝や重要指定文化財に登録されているものを含め、6000点余りにものぼります。また、熱田神宮を含む名古屋の地は、戦国三英傑といわれる武将たちとも深い関わりをもっています。
尾張に生まれた織田信長は神仏を信じない“うつけ者“と呼ばれましたが、今川義元との桶狭間の戦いの前に熱田神宮へ訪れ、先勝祈願の願文を奉納しています。いくさの直前に熱田に到着し、「熱田大神の力を借り勝利したい」と祈願すると白鷺が舞い降りる吉兆が現れたといいます。
見事勝利した信長は草薙神剣の加護に感謝し、「信長塀」と呼ばれる土塀を奉納し、今も日本三大土塀の一つとして境内に120mの土塀が残っています。太閤豊臣秀吉は現在の名古屋市中村区生まれといわれ、地下鉄中村公園駅のほど近く、常泉寺という寺で生誕したと伝わっており、境内の中には秀吉の産湯として使った「豊太閤産常湯の井戸」が残されています。そして江戸幕府を開き、約260年の天下泰平のいしずえを築いた徳川家康は幼い頃、松平から駿府の今川へ人質として預けられることとなりましたが途中でさらわれ織田の配下に置かれてしまいます。織田信秀の命によりこの地の有力者であった加藤順盛の屋敷に預けられ、幼少時代の2年を熱田で過ごし、この時に織田信長と知り合ったといわれています。天下統一を目指し覇権を争った戦国武将たちも、熱田の地に対しては特別な想いや不思議な力を感じていたのは現代に生きる私たちと共通しているのかもしれません。熱田神宮はそんな歴史の移り変わりをみてきた神聖なる古社でもあります。
- 神への祈り 安息への想い -
本展の会期中、名古屋市は緊急事態宣言等もなく、神宮には地元の参拝客を中心として色々な方のご来場を頂きました。特に最終の日曜日は熱田神宮に古くから伝わる「朔日(ついたち)参り」の日でもありました。これは毎月1日(朔日)に、1ヶ月を無事に過ごせたことへの感謝と、新しい月の無病息災・家内安全・繁栄等を祈念する風習であり、熱田区のまちづくり団体「あつた宮宿会」により、2016年から「あつた朔日市」が開催されています。熱田に縁のある店が敷地内に出店として並びにぎわう中の目玉が「朔日市限定あつた宮餅」です。ひつまぶしで有名な「あつた蓬莱軒」と、名古屋土産でおなじみ「きよめ餅総本家」、熱田で愛される和菓子屋「亀屋芳広」、ほうじ茶が人気のお茶屋「妙香園」という、熱田区の老舗4社がコラボし、月替わりの味も楽しめる特別な5つ入りの宮餅です。お昼までには完売してしまうこの人気商品を求めて来られる地域の方や、宝物を見学に来られる方など、様々なご来館がありました。
展示会場となる文化殿宝物館内には解放感ある天井高を生かし、5m近くのアケビの木やユリやアジサイの花などの植物と季節の花を中央から左右に伸びるようにあしらえ、その周りに芸術作品たちを配置し、緑豊かな自然の中にある神宮と溶け込むように会場内をデザイン致しました。訪れた来場者や会場関係者の方にも「こんな展示会をこの熱田神宮で見たことがない、本当に素敵です」、「芸術作品の新たな魅力に気づかされました」等、多数のご意見、ご感想を頂き、想像以上の大きな反響を頂くことができました。
2021年現在もいまだにおさまる気配のないコロナ禍において、ワクチン不足や変異株の流行など、人々の心も憔悴、閉塞し、大切な人とも自由な交流ができず、元の人間らしい生活が取り戻せていない日々が続いています。しかしながら、本展覧会によって微力ながらでも束の間の安らぎを心に感じて頂き、また、唯一無二の素晴らしい作品を通じて熱田に祀られるいにしえの神々と、厄災や邪気を祓う力を宿す神器である宝刀に、1日でも早い安息の日が戻るよう想いを込めて祈りを捧げさせて頂きました。
今回、このような状況の中でも大きな成功を収めることができましたのは、ひとえに作者様の素晴らしい作品、ならびに関係者様の多大なるご協力のおかげであります。あらためまして今後の皆様方のご健康、ご発展を祈り、心より御礼申し上げます。
2020-12-18 00:00:00
奈良 / 奈良県文化会館
大和ノ国芸術祈願祭「安寧の祈り」PHOTO GALLERY
https://seiransha.jp/photo/album/1018323
- すべての人を救う廬舎那大仏、永久の想い -
青天の気候に恵まれ、焔に彩られた紅葉もその多くがまだ残る中、古都奈良において、激動の年であった2020年の締め括りとなる「東大寺大仏殿復興830年記念 大和ノ国芸術祈願祭」を執り行わせて頂きました。
東大寺が創建されるきっかけは、728年に聖武天皇の最愛の皇太子が幼くして逝去され、また、地震や飢饉、そして天平の大疫病といわれる天然痘の大流行により、社会的な不安が国民を襲い、その数々の疫病や災難を仏教に帰依することで国家を守る鎮護国家という考えから国分寺として建立されました。大仏殿に鎮座する本尊の巨大な廬舎那仏は華厳経の教主であり、その名は、宇宙の真理を体得された釈迦如来の別名で、世界を照らす仏・ひかり輝く仏という意味です。左手は宇宙の智慧を、右手に慈悲をあらわし、人々が思いやりの心で繋がり、絆を深めることを願っておられます。
華厳経の経典の教えには、動植物も含めたすべての生きとし生けるものの繁栄を願い、人々の苦しみを救済しようとする菩薩の行いを実践し、互いの思いやりの心をつなげていく、という文言があります。様々な困難に見舞われた聖武天皇は、人々が思いやりの心で繋がり、子供たちの命が次世代に輝くことを真剣に考え、動植物も共に栄えることを願いました。
さらに造像にあたっては、「一枝の草、ひとにぎりの土」の助援を呼びかけ、国民に結縁を求め、助力によって完成しようとした点に、従来の官大寺建立とは明らかに異なるものがありました。
本来であれば56年ぶりのオリンピックが日本で開催され、日本人選手の明るい話題で盛り上がったであろう2020年が『失われた一年』とも呼ばれ、長期の自粛や巣ごもりで人々の心が疲弊し、テレビからは訃報や悲しいニュースの多い年となってしまいました。本展では東大寺の成り立ちの由来や節目に際して、今も猛威を振るう新型コロナウィルスの早期収束の想いを神仏に届けるとともに、疫病の影響により仕事や健康、生活に悪影響を受けてしまったすべての人々に芸術の素晴らしさによって少しでも心の癒し、豊かさを取り戻して頂ければと願い、開催させて頂きました.
- 日本芸術、至高の言葉とアーティスト達の共演 -
会場は世界遺産である東大寺や春日大社、興福寺からほど近く、目の前には奈良公園があり、奈良の名物である鹿が多くいます。「奈良の鹿」は国の天然記念物に指定されている野生動物であり、所有者はいません。767年(天平神護3年)に春日神社が創建され、その由来で主神の建御雷命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から遷る際に白鹿に乗ってきたとされ、神の使いとして神鹿(しんろく)と尊ばれるようになったという説があります。
神鹿は会場建物の目の前にまで現れ、乾いた空気に白息がまじる師走の空気の中、地元の芸術愛好家や、大学の学生さん等、多様な方々がご来場頂き、日本人が生み出す唯一無二のアート、工芸と言葉との融合を楽しんで頂けました。繊細な手作業や柔軟な思考から生み出された生きた作品たちをご覧になり、評判を聞いて翌日来場頂いた方など、作者の作品に込めた思いがこれ以上なく人の心に広がっていったことを確信しています。
2020年はまさに歴史を揺るがす年であり、あらゆる意味で忘れることのできない一年になりました。しかし、どんな厄災や困難がふりかかろうとも、1300年前に聖武天皇が国民に団結を呼びかけ、思いやりの心をつなげていくことを願ったように、人の想いこそが永遠であり、不滅であると感じます。東大寺や薬師寺といった仏閣も早期の疫病収束祈願を続けており、弊社としても祈願をさせて頂き、今回の展示を通じて医療従事者の方々に少しでも支援がとどくよう、赤十字に寄付をさせて頂きました。ご協力頂いた作者の方々には本当に厚く御礼申し上げます。
本展の成功はいうまでもなくご協力頂いた作者の方々のお力添えの賜物であり、誠にありがとうございました。あらためて今後も皆様方の益々のご発展とご健康を心よりお祈り申し上げます。
2020-06-15 00:00:00
Sri Lanka / ラジャマハ・ビハーラ寺院
七十五年祈念 日本スリランカ文化友好芸術祭「平和ノ燈 」PHOTO GALLERY
https://seiransha.jp/photo/album/1114938
- 知られざる親日国スリランカと日本の絆 -
インド洋に浮かび、古代から仏教王国として栄えた熱帯の国スリランカ。日本にも輸入され楽しまれているセイロンティーで名高い広大な紅茶畑が広がる高原地帯の朝晩は冷えますが、一年を通して、気温はあまり変化がなく、平均30℃ほどの常夏の島国です。そんなスリランカと日本との結びつきが古くから強いことは残念ながら一般にはあまり知られておりません。
日本とスリランカの交流は戦前にまでさかのぼり、昭和天皇は皇太子であられた1921年3月、訪欧の途中にスリランカに立ち寄り、最大都市であるコロンボの他、世界遺産の寺院や王宮が点在する聖地キャンディーを訪問されました。また、現在の上皇陛下が皇太子であられた1981年3月には、妃殿下美智子様を伴われ訪問、両殿下はキャンディーにも赴かれ、植物園にて記念植樹をされ、また、新種の蘭に「ミチコ」と命名されるなど、日本・スリランカ友好親善の発展に大きく貢献されました。
芸術間の交流もあり、明治の開国以来、幕末外交使節団一行としてヨーロッパに赴く中継地としてスリランカが重宝され、福沢諭吉、森鴎外、夏目漱石、与謝野晶子などがコロンボで旅装を解きました。1993年には日本スリランカ友好文化基金が設立され、発足以来ほぼ毎年、スリランカの前途有望な中堅芸術家及び芸術文化団体の活動支援のため「文化賞」を授与しており、授賞式の模様を全国放送すると共に、日本芸術家との交流の機会ともすべく歌手や日本舞踊家を招致し、日本文化の紹介も併せて実施されています。
このように古くからの親交があったからこそ、75年前の太平洋戦争終戦時、スリランカの、故ジャヤワルダナ大統領は1951年に開かれたサンフランシスコ講和会議にセイロン代表(当時蔵相)として出席し、ブッダの言葉を引用して、「戦争は終わった。もう過去のことである。やられたらやり返す、憎しみを憎しみで返すだけでは、いつまでも戦争は終わらない。憎しみで返せば憎しみが日本側に生まれ、新たな憎しみの戦いになり戦争が起きる。憎しみとして返すのではなく、優しさ、慈愛で返せば戦争はなくなり平和になる。もう憎しみは忘れて、慈愛で返していこう」と語りました。そして日本に対する賠償請求権の放棄を明らかにするとともに、日本を国際社会の一員として受け入れるよう訴える演説を行いました。当時、一部の戦勝国からは「日本は南北に分割して統治すべき」、 「日本を独立させるのは時期尚早」等厳しい制裁措置を求める声もあった中、この演説はそうした人々の心をも動かしたと言われ、その後の日本の国際社会復帰への道につながるひとつの象徴的出来事として記憶されています。
時代は令和にうつりかわりましたが、二国間の交流は変わらず、令和元年5月1日、新しい天皇陛下の御即位に伴い、「令和」の時代が幕を開けました。同年10月22日に行われた即位礼正殿の儀には、シリセーナ大統領(当時)御夫妻が参列され、日本とスリランカ両国間で培われてきた奥深い友好親善関係を国内外に広く示されました。
- 戦後75年 芸術・文化による心の交流 -
このような歴史的、文化的背景をもとに、終戦後の日本を救ってくれた謝意と、国境を超えての文化交流を主眼として「終戦75年祈念 日本スリランカ文化友好芸術祭 平和ノ燈」は開催されました。
今回、本展覧会の会場となったラジャマハ・ビハーラ寺院は紀元前に創建されたと言われるスリランカで最も歴史ある由緒正しい古刹です。現在は小・中・高・大学を合わせて4000人以上の子供たちが学ぶ大規模な学校も併設し、国を支える政治家や文化人など多数の人材を育成しており、多くの僧侶、子供たちが集まるスリランカの信仰と教育の中心にもなっています。この寺院の総長であり、学校長も務めるラブガマ・ナーラダ大僧正の全面的協力のもと、開催当日は多くの地域住民、子供たち、文部大臣等の政府関係者等、たくさんの方が会場に訪れ、インターネット上で展覧会の生中継も行われました。また、周辺の学校の生徒たちにもご来場頂き、多くの方が初めて見る日本の短詩型文学に目を奪われ、1時間以上も会場で熱心に眺められている方も少なくありませんでした。親日国であり、日本文化に対しての興味も非常に高く、弊社の想像以上に日本文化受容の土壌が根付いていることや関心の高さを感じ、戦前からの歴史が紡いできた両国の友好を感じることができました。本来であれば2020年6月に開催される予定の本展でしたが、またたくまに世界に広まった新型コロナウィルスによる影響で会期が延期になってしまい、皆様方にはご不安とご迷惑をおかけしたこと、大変申し訳ありませんでした。当日は徹底的なコロナ対策、除菌、換気対策を行い、安心して貴重な日本芸術作品がご覧になって頂けるよう、最大限の措置をとらせて頂きました。結果、無事に開催終了することができ、嬉しいことにその後も、ご来場者からの喜びの声を頂けております。困難な局面を乗り切り、無事に本展が開かれましたことは、ひとえにご協力頂いた作者の方々のお力添えの賜物であり、誠に厚く御礼申し上げます。今後とも皆様方のご健康と益々の発展を心よりお祈り申し上げます。
2019-11-22 00:00:00
福岡 / 太宰府館
令和元年祈念太宰府文芸祭「万葉ノ彩」PHOTO GALLERY
https://seiransha.jp/photo/album/990553
- 万葉の詩が聞こえる -
青く透き通った秋晴れの空の下、朱や橙色に紅葉した樹々に染まる霜月の太宰府。約30年振りに改元された新元号由来のこの地において、「令和元年記念 太宰府文芸祭 万葉ノ彩」が執り行われました。
新元号「令和」は「大化」から数えて248番目にあたり、およそ200年ぶりの生前退位による改元であること、初の日本古典からの典拠となったことでも話題になりました。この言葉は奈良時代の天平2(730)年、ときの太宰府長官、大伴旅人が高官らを自邸に招いて開いた「梅花の宴」の序文からとられています。
大伴旅人は飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した貴族、武将、歌人であり太政官における臣下最高位の大納言まで昇進、728年には太宰府長官として赴任し、歌人である山上憶良らとも交流を深めました。万葉集編纂に関わり、「三十六歌仙」や「小倉百人一首」にも載っている和歌の名手、大伴家持は旅人の息子であり、旅人の歌も78首が万葉集に選出されましたが、その多くが太宰府任官後に詠まれたものになっています。「梅花の宴」で大伴旅人が詠んだ歌を一首、紹介します。
- 我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも -
宴が催されたのは「正月13日」。現在の暦で2月初旬にあたります。満ち足りた正月の祝宴なのに季節外れの「落梅」が詠まれ、はかなさが漂っていてある種の不思議な気持ちになります。旅人は山上憶良とともに「筑紫花壇」という集まりを作り、様々な歌を万葉集に残しました。
- 令和初の言葉の祭典 -
太宰府といえば太宰府天満宮に祀られる天神様が有名ですが、この地に降り立つと菅原道真が生まれるより前、1200年以上前の日本人が、身分の上下に関わらずいかに四季を愛し、友人や家族を思い、日々を過ごしたのかを感じることができました。
本展の開催時期はちょうど紅葉の時期や、太宰府天満宮での秋の菊花展が重なり、「令和」の由来となった地を訪れたかったという観光客や参拝客で参道は溢れかえり、軒を連ねる名物「梅ヶ枝餅」の店先には連日行列ができ、例年以上のにぎわいをみせておりました。
会場にもたくさんの観光客や地元結社の方々、また、七五三で訪れた袴姿のお子さん連れのご家族にも多くご来場頂き、普段目にすることのない有田焼と文芸の融合を興味深く、丁寧にご覧になっているのが印象的でした。
訪れた方々には会場で本展の感想文を書いて頂き、「新元号生まれの地でこんな素敵な詩歌に出会い、感動した(50代女性)」、「修学旅行で初めて訪れた太宰府で教科書では見られないような作品に出会い、日本文芸に興味が湧いた。(10代男子)」、「みなそれぞれ辿ってきた想い、歴史の深さが表れていて心が洗われた(40代男性)」等のお言葉を頂き、この展覧会を見て初めて日本文化に興味をもったという若年層も多く見受けられました。
今回は皆様の作品を、日本を代表する磁器である有田焼にそれぞれ写し、紅葉をイメージした暖色系の布和紙を皿立ての下に配し一枚一枚立てかけ、会場の中央には大鉢に季節の花を生け、柔らかで和かな空間を作り上げました。来場者や地元結社の方などからは「このような形で日本の詩歌作品を目にしたことはない、新鮮で驚きだ。(40代会社員)」、「全国区の作品のレベルの高さを知れて刺激になった(70代女性)」というような様々なお声を頂き、実に充実した文芸展になったことと思います。
私たち自身や家族、友人が新たに生きる時代、令和。「令」という漢字には「美しい」、「めでたい」といった意味が込められており、そのため「令和」という元号を英訳すると「ビューティフルハーモニー」となります。今回の「令和元年記念 太宰府文芸祭 万葉ノ彩」も皆様方の想いのこもったコトダマの数々がまさに美しいハーモニーを奏で、日本を代表する伝統工芸の有田焼と調和し、訪れた多くの方の心に深く刻まれたことでしょう。
結びに、一度しかない新元号の元年にその所縁の地でこのような素晴らしい展覧会が開催できましたのは、皆様方のお力添えと辿ってこられた人生のご経験が集約した作品の賜物であり、厚く御礼申し上げます。
今後の皆様方のご健康を願うとともに、益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。